翌日。
何事もなかったかのように、
上総はいつもと変わらない様子で出社していた。
恭一郎も、特に気にもせずに研究に勤しんでいた。
昼休み。社員たちが食堂で昼食を取っていた。
「なんだ満?それ食いもんか?」
おそるおそるとフタを開けた満の弁当を見た
浪路の最初の一言がそれだった。
「ばっ…バカ!!んな大声で言うなよ!!」
どうやら芹子の手作り弁当らしい。
芹子は料理が破滅的に大ヘタなのである。
「あいつ…少しでも料理上手くなりたいって…
…これから毎日オレの弁当作ってくるんだと…」
「なんだ、芹子もかわいいとこあるじゃん」
「…そう言うけどなー、お前、これ見ろよ?
毎日食えるか?こんなもん」
「なーに言ってんだよ、可愛い彼女が作ってくれた弁当なら
どんなにマズくても残さず食うぜ?俺なら」
「お前、そのセリフ、これ食ってからも言えるか?」
「何だお前ー、しっつれいなヤツだなー。芹子、かわいそー。
じゃあ、俺がそれ全部食ったら芹子は俺のモンだな!」
そこまで言うんなら食ってやる、と言わんばかりに
浪路は満から弁当を奪い、一気に飲み込む。
――――――――………………
しばらくして、芹子が食堂へとやって来た。
「あっ、満!お弁当どうだった?…あっ!!全部食べてくれたんだ~!
いつもなら『マズい!こんなもん食えるか!!』って言って食べないのに!
……あれ、浪路。どうして床に寝っ転がってるの?」
「あ、ああ…なんか気分が悪いんだと、さ…」
浪路は虫の息だった(笑)
満(本当は浪路)が弁当を完食し、浮かれる芹子をよそに、
弁当を食べ損ねた(?)満は、どう腹ごしらえしようかと考えていた。
その時、満と芹子の前に上総が現れた。
「こんにちは、遠山さんに神崎さん。
今朝、マドレーヌを作ったんですけど、食べませんか?」
上総が持っているカゴには、山ほどのマドレーヌが。
「すご~い、桐島さん、お菓子作りできるんだ!」
「おっ!すげぇカズさん!!うまそうじゃん!!!いっぱいもらっていいか?」
「ちょっと満、お弁当食べたばっかじゃないの?
あたしはまだ食べてないけど…」
疑いの目で見る芹子。
空腹で目の眩んだ満は聞いていない。
「うおーーー!!!うめぇええーー!!!」
「…まったく、もうっ!!」
午後。
「あら、ちょっと材料が足りないわね…」
ビーカーに薬液を入れて、ある材料を加えようとしていた在素は、
その材料が足りないことに気付く。
「しょうがないわね、ちょっと買い出しに行ってくるわ」
「あっ、在素さん!私が行きましょうか?」
凪が心配そうに声を掛ける。
天才児とはいえ、まだ4歳の在素。
子供一人で外を出歩くのは危険だと思ったのだ。
「大丈夫よ、凪さん。ちょっと難しい材料だから
私が行かないとわからないのよ」
「じゃあ、僕がお供しましょう。在素さん」
凪と在素の背後から、上総が声を掛ける。
「あら本当?じゃあお願いしようかしら」
「決まりですね。じゃあ行きましょうか。
……それでは久我博士、ちょっと買い出しに行ってきますね」
「……ああ、気を付けて行って来てくれたまえ」
午後4時。
「あ~よかったわ。探してたものがあって」
買い出しの帰り道。
思い通りの品物が見つかった在素はご機嫌だった。
「すっかり遅くなってしまいましたね」
「あらやだ、もうこんな時間なの?」
街灯の下にある柱時計を見上げる、在素と上総。
「せっかくですから、そこの喫茶店で一休みしませんか?在素さん」
ちょうど小腹も空く時間だ。
「それもいいわね。じゃ、行きましょ」
「いらっしゃいませ、何名様ですか?」
二人が入ったのは、観葉植物が窓際から天井までたくさん飾ってある、
ジャングルをイメージしたかのような喫茶店。
「ご注文はお決まりですか?」
「在素さん、何にしますか?」
「それじゃ、アイスティーを頂こうかしら」
「それでは、僕はコーヒーをひとつ」
「はい、かしこまりました」
「…そういえば、上総さんと二人でいるのなんて、初めてかしら」
会社で毎日顔を合わせているが、そういえば二人きりに
なった記憶はない、と在素は意味もなく思った。
上総は黙って、在素の顔をじっと見つめていた。
「…ど、どうしたの?上総さん。私の顔なんてじっと見て」
在素もその視線に気付く。
「在素さんは、久我博士によく似ていますね」
なんだ、そんなことか。と在素はため息を付く。
「そう、よく言われるのよね。
お父さんがもうちょっと美形だったら良かったんだけど」
ほどなくして、ウェイトレスが飲み物を運んでくる。
「お待たせいたしました。ホットコーヒーにアイスティーです」
「そういえば、昨晩上総さん、研究室に来た?」
「…………!」
アイスティーにガムシロップを入れ、かき混ぜながら在素が問う。
「…何か、お父さんと言い争っていたような感じがしたけど…」
在素の寝ていた宿直室は、研究室の隣にある。
昨晩の恭一郎と上総のやりとりが聞こえていてもおかしくはない。
「まぁ、お父さんの言うことを全部間に受けちゃ駄目よ。
あの人時々…いえ、しょっちゅう変なこと言ってるから」
どうやら会話の内容までは聞こえていなかったらしい。
在素は、アイスティーにガムシロップとミルクを入れ、
存分にかき混ぜた後、グラスに口を近づける。
だが。
「……あら?このアイスティー、何か薬品のニオイがするわね…」
自ら飲もうとしたアイスティーの異常に気付く。
在素が何度もアイスティーの異臭を確かめていると。
突然、上総が席を立ち上がった。
「ど、どうしたの?上総さん」
「……さすがは、久我博士のご息女。そう簡単にはオトせませんか…」
「……な……何を言っているの?」
在素がうろたえているそのスキに。
上総は、薬品を染み込ませたハンカチを
在素の口鼻にあてがう。
「………うっ…ぐ……!!!」
在素は必死にもがくが、所詮は子供の力。
大人の男の手を振りほどけるはずもない。
上総と在素のやりとりを、黙ったままじっと見つめる、
喫茶店の店員達。在素のアイスティーに睡眠薬を入れたのも店員達だ。
共犯だったのだ。
「文句があるなら博士におっしゃって下さいね…
昨晩、僕を挑発したにもかかわらず、僕とあなたを二人きりにしたあの人を」
上総の言葉は、もはや在素には聞こえていなかった。