[小説]そして二度目の梅雨が来る(プロローグ)

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それは、桜が満開な季節の、良い天気の午後のことだった。

「…ああもう…社長も人使いが荒いなぁ……」
大島 橘は、先般社長に依頼されていた書類を
両腕に山ほど抱え、社長室へと向かっていた。
橘は4月から、購買部の主任へと昇進したばかり。
だが、昇進と言えば聞こえはいいが、実際は今までより仕事が増えただけである。
「うう、重い…早いトコこれ置いて…次の仕事しなきゃ…」
ブツブツと独り言を呟きながら歩いていると、
ふと前方から小柄な金髪の青年が歩いてくる。
営業部のハインリヒ=明=相原である。
立ってる者は親でも使え。
橘の頭の中に、ふとそんな言葉が思い浮かんだ。
「あ、相原さ……」

だがハリーは、橘の呼びかけに気付くことなく、橘の脇を通り過ぎた。
(………?)
ハリーの様子がおかしい。
橘はとっさにそう感じ取った。
何よりも、常に笑みを絶やさない彼の顔に、笑みがない。
何もしていなくても、誰と話していなくても、
一人でもウフフフフフと笑っているのが彼の常であるというのに。
彼の真剣な顔を見るのは、無愛想で有名な仙波継人の笑顔を見ることよりも
さらに難易度が高いという噂さえ立っているというのに。
「……相原さんっ!」
既に後ろ姿を見せていたハリーの肩を、とっさに掴む。

……―――――

(―――――え!?)
ハリーの肩に触れた途端、橘の脳裏に一瞬だけ、ハリーの意識が入り込んできた。
橘は、人より第六感が非常に鋭く、感覚さえ研ぎ澄ませれば
他人の意識を読むことも希に可能である。
ハリーの意識を読もうという気などはさらさらなかったのだが。
それでも伝わってきたということは、
彼は今、よほど強く、重く、苦しい感情に支配されていることになる。

「…あらン?タッちゃん!どうしたのン?
……あらあら、書類床に落ちちゃってるわよン!拾ったげるン♪」

呆然とする橘をよそに、ハリーはいつもの笑顔で
橘が床に落とした書類を一枚一枚拾い上げる。
「え、あ、すっ、すいませんっ!!!」
我に返った橘は、慌ててハリーと共に書類を拾い集めた。

「ハイ、これで全部よねン?」
最後の一枚を拾い上げ、書類の山の上に乗せるハリー。
「…すいませんでした…」
さっきの、ハリーから感じ取った重い感情のことが、
どうしても気になる橘は、書類の山を抱えたまま不安そうにハリーを見つめる。
「やだン、どうしたのン?タッちゃん」
「……何が、あったんですか?相原さん」
ほんの一瞬だけ、ハリーの表情が曇る。
「な、なんのことン?」
「だって、さっき―――――」
感じ取れたあの重い感情は何ですか、と言いかけ橘は口を濁す。
偶然とはいえ、人の心の奥を読むことなど、
人として信頼関係を失う愚かな行為である。
「…い、いえ、なんでもありません…すいませんでした…」
項垂れる橘を見て、ハリーは観念したように淡く微笑む。
「…いいのよン。わかっちゃったんでしょン?ボクが今すっごくまいっちゃってるコト。
ありがとう、心配してくれて……」

「あ、相原さん……」
「タッちゃんには全部話すね。
それに、隠しててもいずれみんなにバレちゃうことだから…」

 

 

 

 

書類を社長室に置いた後、橘とハリーは屋上へとやって来た。
幸い、屋上には誰もいない。
二人は屋上の壁に寄りかかり、やがてハリーがゆっくりと語り始めた。

「ボクの両親ね、実は去年離婚しちゃったんだ」
何でもないことのように、ハリーはさらりと言う。
「え…そ、そうなんですか……」
何と言い返せばいいのか分からない橘は、そう言うのが精一杯であった。
「あっ、気にしないで。もう気持ちは落ち着いてるから。
…それでボクは、一応苗字は変えなかったけど、
イギリス人のお母さんの家のコってコトになってるの」

ハリーの両親は、父が日本人とドイツ人のハーフ、母はイギリス人とフランス人のハーフ。
父の苗字が「相原」なのである。
「それでね、お母さんの実家は、イギリスでも結構大きい
紅茶農園をやっててね。今まではお父さんと二人で頑張ってきたみたいだけど、
…ああなっちゃったでしょ?今はお母さん一人で切り盛りしてるんだ。でも…」

ここまで言いかけ、ハリーは表情を少し曇らせる。
「…何か、あったんですか?」
「お母さん、病気になっちゃって。
…治るかどうかわからないんだって。それで…ボクに農園を継いでほしいって」

「………えっ、じゃ…まさか……」
驚く橘に、ハリーは苦笑いをし、黙って頷く。

「うん、そう。会社辞めて……イギリスに帰ることになったんだ……」

風が強くなってきた。
どこからか飛んできた、桜の花びらが屋上を舞う。
強風で乱れた前髪を掻き上げながら橘が問う。
「このこと……………………成沢さんは?」
「まだ知らないよ。タッちゃんと社長以外、誰も。
……ねえねえ、ボクが辞めるって言ったら、みんなビックリするかな?」

重い空気を払いのけようと思ったのか、ハリーは軽口を叩く。
「何をのんきなことを………
………………?」

ふと、橘は、先ほどからハリーの言葉に違和感があることに気が付いた。
「どうしたの?タッちゃん」
「相原さん……日本語……おかしいですよ!」
「え、なんで?なにか変なこと言った?ボク」
「違いますよ!いつも『~なのン♪』っていうあのオカマみたいな言葉は…」
必死に問う橘を見て、ハリーは失笑する。
「フフフ、ゴメンね。オカマ言葉じゃないと
日本語話せないっていうのはね、昔の話だよ。
本当はちゃんとした日本語も話せるの。これはとっておきだったんだけどね」

「とっておき?」
「……眞妃ちゃん、ボクのオカマ言葉イヤがってたでしょ?
いつか……驚かしてあげようって思って、ちゃんと日本語勉強し直したんだよ。
……でも、まあそれも、もう無駄になっちゃうみたいだけどね……」

「相原さん……!」
「……ボクが会社辞めちゃうこと……今はまだ眞妃ちゃんには言わないでね。
確かに眞妃ちゃんと離れるのはすごくつらいけど…同情だけは買いたくないんだ」

そう言って、ハリーは力無く微笑んだ。

橘は、そんなハリーの笑顔を見て、
「…はい…」
そう言うのが精一杯だった。

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