「こんちわーーっス!久我さんいる?」
突如、威勢の良い声と共に開発研究室の別館に現れたのは。
同じ会社の事業企画部の蔵石沙織であった。
室内に飛び込んできた沙織の顔を見るなり、
桐島上総は何かを思い出したかのように、ハッとする。
「あ、あれ、蔵石さん。こんにちは」
そして何故か、戸惑い気味に言葉を返す上総。
「おー、桐島さん。こっち(別館)に久我さん来てない?」
「い、いえ…く、久我博士は今日は留守ですよ。」
どうしても、会話がぎこちなくなる上総。
沙織はまだ気付いていない。
「へー、いつも研究室に閉じこもってウフウフ言ってる
久我さんが外出なんて珍しいねーっ!あっはっは。なんてね。」
上総の様子とはうって変わって、底抜けに明るい、沙織。
「く…蔵石さんこそ、こちらにいらっしゃるのは珍しいですね…」
上総は、なんとか悟られまいと、懸命に会話を繋ぐ。
「まぁね、こっち来るのは初めてかもね!
そーいや桐島さんとマトモに話すのもこれが初めてか!あっはっは!
…へー、ま、でもさすが新築なだけあって、キレイじゃん!ここ。」
あっけらかんと話す沙織を、黙ったまま見つめている。
表情をくるくると変える沙織から、目を離さずにいられない。
「そうですね…」
そう言い返すのが精一杯だった。
「あ、そうそう。久我さんに資料借りようと思ってたんだ!
昨日頼んでおいたんだけどなー。うーんでも久我さんいないならダメかぁ。」
(資料?)
そういえば。
久我から出がけの際に、手渡されていた物があった。
青い表紙の、分厚いファイル。
もしかしてこれのことだろうか?
「…もしかしてこれですかね。久我博士から預かっていたんですが。」
上総が取り出したファイルを見るなり、沙織はそれを勢いよく奪い取る。
「あーっ!!そうそうコレ!サンキュッ!!
ひゃーっ、これで今日の仕事、助かるわー!」
嬉しそうに、とびきりの笑顔を上総に見せる、沙織。
その笑顔は、上総の挙動不審にますます拍車を掛けた。
「そ、そうですか……よ、よかったですね。」
「…ん?どしたん?桐島さん。なにそんなにキンチョーしてんの?」
ついに、沙織が疑い始める。
(ま…まずい!)
「い、いや別に何でもないですよ!」
必死にポーカーフェイスを装おうとするが、そんなことは既に手遅れである。
顔を真っ赤にする上総に、沙織が詰め寄る。
「んー?ますますアヤシイなー?コラ桐島!白状しろぃ!!」
少しふざけたように脅しをかけながら、
上総の胸を人差し指でぐりぐりする、沙織。
「あ、あの、その…しっ、失礼しますっっっ!」
沙織の尋問を振り払い、上総は猛ダッシュで研究室別館を後にした。
「あ!逃げたわねっ!?待てぇーーーーーい!!!」
「……はぁ……はぁ……っ……もう大丈夫かな…」
本館の購買部商品倉庫。
なんとか沙織を撒いた上総は、倉庫の棚に背もたれ、
眼鏡を外し、片手で顔を覆う。
瞳には、うっすらと、涙。
「……まさか、あんなにも似てるなんて……」
話している相手までも明るい気持ちにさせてくれる、
底抜けに明るい性格。
あっけらかんとした口調。
くるくると変わりやすい表情。
その何もかもが、上総の亡き妻にそっくりだったのである。
今までも、何度か「似ている」と思ったことはあったのだが、
まともに会話をしたのは、今日が初めてであったために、
それをより痛感したのであった。
「まいったなぁ………」
亡き妻のことは、忘れるつもりもない。
忘れられるわけがない。
だが……
忘れかけていた、予測の付かない胸の痛みと、
心の中の妻の存在に挟まれた上総は、
倉庫の棚にもたれたまま、項垂れた。