翌日、月曜日。
司は会社に現れなかった。
あの後、すぐに目を覚ました愛子であったが、その時は既に『黒幕』と共に消え去った後であった。
司の左肘にあった、無数の噛み傷。それだけは、はっきりと覚えている。
愛子は、総務部に掛け合って会社で心当たりのある人物を召集し、この事実を伝えることにした。
「……なんか、いつだかの幹部会でも疑われたけど、俺じゃないって。
大体俺だったらそんなコソコソと血吸ったりしないんだけど?」
そう言って、困惑した表情を浮かべるのは、ねぎ秘密結社に棲まう(所属する)吸血鬼である、国際部長の白鳥夜半。
「吸血鬼なんてそんなたくさんいるわけじゃないだろうし、疑われても仕方ないと思うけどね。
ま、私も夜っちゃんがそんなことするとは到底思えないけど。第一そんなキャラじゃないだろうし。」
そうあっさりと、夜半を容疑者から外すのは、司の上司である英司。
「白鳥さんを疑ってるわけじゃないんです!でも、吸血鬼の仕業なら同じ吸血鬼に訊いた方がいいだろうと思って…」
「まぁね。……ま、話を聞いた限りだと、それはやっぱり吸血鬼の仕業で間違いないかなぁ。」
別に珍しいことでもない、といった様子で頬杖をついたまま夜半がため息をつく。
「吸血鬼が血を吸った相手に、特別な能力を与えるということは可能なのかね?」
興味津々に問いかけるのは、ねぎ秘密結社きっての狂科学者、開発研究室の久我恭一郎。
「できるよ。血族のいない吸血鬼は、血を吸った相手が血族ならぬ眷族になるからね。
血をもらう見返りとして、眷族に対し何らかの力を与えることもあると思う。
そして与える力はその吸血鬼の得意なもの……まぁそいつなら体力が秀でてるんだろうな。俺だったら魔力とか。」
「ほほぅ……それはとても興味深い……! ならば私が白鳥君に血を吸ってもらえば魔力が……!」
「……別にいいけど久我ちゃん俺に一生逆らえなくなるよ?」
「な……!それは戴けんな……! 大体私が白鳥君にうんぬんかんぬん」
夜半と久我がやや緊張感のないどうでもいい言い争いをしている中、
愛子は必死に、英司に訴えかけた。
「つかちゃ………古屋くん、これ以上その吸血鬼から力を貰っていたら、命が危ないと思うんです!
元気に見せかけてたけど、時折息を切らしたり……胸を押さえたりして……あたしずっと見てました。
とにかく……どうにかして、古屋くんを探し出せませんかっ !?」
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その後、司の家族にそれとなく確認を取ってみたが、連絡は入っていないようだったので、
心配を掛けないように『会社に泊まりこみで大規模な棚卸し作業』をしている、と告げ、
広報部をはじめ、社員一丸となって司の行方を追った。
無論、愛子も必死になって捜索に力を貸した。
一刻も早く彼に会いたかった。
だがそれは、『吸血鬼から血と引き換えに力を与えてもらう』ことを止めさせるためでは、なかった。
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八方手を尽くしたつもりであったが、とうとう司を見つけ出すことができないまま、大会当日を迎えた。
「おっかしーなー。古屋の奴、あんなに頑張ってたのに当日に来ないとか、どーしたんだ?」
「携帯も繋がらないし……何か事故とかじゃなきゃいいんだけど……」
司と愛子の所属するアマチュアマラソンサークルの面々も、集合時間になっても現れない司を心配する。
「よっす。遅れちった。悪かったなー。」
「つかちゃん… !?」
あんなに必死に探したのに、何の悪ぶれもなく、至極当然のように、司が現れた。
「どこに行ってたの !? あたしも会社のみんなも心配して… !!!」
泣きそうになりながら詰め寄る愛子。
「え、え?どしたの愛子ちゃん。古屋君なにかあったの?」
何の事情も知らないサークルの仲間が、不思議そうに問いかけてくるのを見て、司が静かに愛子を制する。
「……愛子、ちょっといいか?」
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スタートまでまだ少し時間がある。
司と愛子は、スタート地点の人ごみから少し離れたところの木陰で対峙した。
「つかちゃん………」
「……大体察しつかれちまったかもしれねーけど……
前にも話したとおり、おれ、昔からフルマラソン完走するのが夢でさ。
んでもって、おれにはもう時間がねーの。だから何て言われてもこのマラソンだけは……」
「つかちゃん、あたし、まだ何も言ってないよ。」
「……愛子?」
「この一週間、つかちゃんを必死に探したよ。でもそれはマラソン走るの止めるためじゃなくて……
つかちゃんが、あたしの知らないとこで、万が一死んじゃったりする前に、絶対言いたいことがあったの」
「言いたいこと……?」
裏に吸血鬼が絡んでいることもばれ、絶対に走るのを止められると思っていた司は、首をかしげた。
愛子は深呼吸して、思い切り叫ぶ。
「あたしは、自分の命を掛けて夢を叶えようとするつかちゃんが、
めっちゃカッコイイと思ってるんだからな―――― !!
絶対に完走しろよぉこのイケメン !!!!!」
ものすごい大声のエールに、周囲の人々の視線が、一瞬にして二人に集まる。
「……は……はは……イケメンなんて、生まれて初めて言われたな……」
「イケメンをイケメンと言って何が悪いんだよお !!! もう!さっさと死んじゃえ!完走して死ね !!!」
周りの視線などおかまいなしに、愛子はいつの間にか顔を涙でぐしゃぐしゃにして、司に抱きついた。
愛子の大声に気付き、会社の面々も次第に集まってくる。
「古屋君………」
大体の事情を察した上司の英司と、同僚の歓子も泣きそうになりながら駆け寄ってきた。
「沢井部長、かんこりん……ごめんな。おれ、絶対完走するから。」
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午前8時。マラソンは一斉にスタートを切った。
実は、司はスタート前から立っているのがやっとなくらい消耗していた。
それを『最期の』気合と気力で立ち上がっていた。
会場に来る直前に『黒幕』には、これが最後の供給にしてくれと告げ、
受け取れるだけの、ありったけの力を与えてもらった。
これが切れたら、恐らく………
不思議と、恐怖心はなかった。
むしろ、最高に幸せ。
自分の思うように身体を動かし、風を切り、汗をかく。
毎日ベストタイムを求めてトレーニングしていたが、実際はそんなこと、どうでも良かった。
元気良く駆け回り、身体を動かせる。それだけで良かった。
たとえそれが死と直接繋がることになろうとも、後悔なんて全くあるわけがなかった。
自分の勝手で、若くして死ぬことに…自分を産み、育ててくれた親や、家族に申し訳ないという気持ちはあった。
だが、それでも。
何も出来ずに何十年も生きているだけよりも、大好きなことに打ち込んで勢い良く散る。
暗く長いトンネルのような人生より、一瞬の輝きを選んだ。
(これが、おれの人生だ……… !!!)
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約3時間。
気力だけで走る司に、とうとうゴールが見えてきた。
超人的体力を持つ愛子は、既にゴールしている。
全身全霊をかけて走る司のタイムは、平均よりもだいぶ速い。
「すごい……すごいよつかちゃんっ! 頑張れ―――― !! あとちょっとおおおお―――――― !!」
愛子が全力で叫ぶ。その声は司にも届いていた。
他の社員たちも、固唾を呑んで見守りながら応援する。
声援に後押しされ、司は遂にゴールのテープを切った。
(……やっ……た………!!!! )
胸に、ゴールのテープの感触を確認した司は、切れたテープと共にその場に倒れこんだ。
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「担架 !!!」
大会関係者に一切迷惑はかけたくはない、という司や愛子の心情を汲み取り、
救急隊員に扮した、白衣姿の開発研究室の面々が担架を用い、司を人気のない場所に留めてある
会社車両のもとへと運んでいく。
まだ延命措置が取れそうであれば、久我の判断で医療施設に運ぶ手立てではあったが…。
「……………」
司の状態をひと目見た久我は、残念そうに首を横に振った。
「い……いよ……久我っち……」
何も出来ず唇を噛む久我に、司が声をかける。
「つかちゃん……頑張ったね……! タイム、3時間20分19秒、すごいよ……!」
「……そ……か……さすが……に、ベストじゃ……なかったな……はは……」
自らが横たわる隣で、顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら愛子と共に、司も力なく笑う。
「流石に限界のようだな。これ以上力を与えても肉体は耐え切れない。」
最期の時を迎えようとしている司の元に、『黒幕』が現れた。
「……あなたが……!」
初めて『黒幕』の姿を目の当たりにした愛子が、睨みつける。
確かに、司がこうなった原因は『彼』なのだが、司は『彼』を責める気など一切なく、
むしろ感謝の心でいっぱいであった。
だが、それを告げる力も時間も、もう残されていなかった。
司の最期を確認しに来ただけなのか、『黒幕』はそれ以上は何も語らずに消え去った。
最後に、思い切り身体を動かせた。夢であったフルマラソンも完走できた。
幸せであったことを、ひとつひとつ思い出していく。そして……
この世に生まれて来れたこと。22年間、自分なりに精一杯生きて来れたこと。
その全てが、彼にとって眩しい『思い出』へと昇華する。
「……も……十分だ。サンキュ……」
誰に宛てるわけでもなく、全てのことに感謝すると。
司は瞳を閉じた。
二度と開くことのないその瞳に、笑顔を添えて。