数日後、午後6時。
終業時間を1時間ほど過ぎた頃である。
そしてまた、いつもの威勢の良い声と共に開発研究室の別館に現れる沙織。
「やっほー久我さんっ!こないだの資料返しに来たよーっ!」
その威勢の良い声にびくつく様に、おどおどとした感じで上総が答える。
「あ、あれ。蔵石さん……久我博士なら、留守ですよ。」
「えぇ?またいないの!?久我さん、最近留守多いなぁ!」
残念そうな表情とジェスチャーをする沙織とは
目を合わそうとせずに、上総は黙ってそそくさと別館を後にしようとした。
「…ちょい待ち、桐島さん。」
そんな上総の白衣の裾をぎゅっと掴む、沙織。
「なななな、何するんですかっ、…蔵石さんっ」
「このあたしが気付いてないとでも思ってるんかい?
…あんたいつも、あたしの顔見るなり、なんかバケモンでも見たみたいに逃げまくってるでしょ!」
図星を指され、あたふたとする上総。
確かにその通りなのである。
先日、初めて沙織を意識し始めてから…彼女を意図的に避けてきていた。
しかし、その理由は…決して悪意あるものではない。
「……!!! そ、そんな化け物だなんて!!!!」
「さあ!はっきりと言って貰おうじゃないの!
このあたしのどこが気に入らないのさっ!?」
そう言って、沙織は上総の胸ぐらを掴み、詰め寄った。
眉間にしわを寄せ、怒りを露わにした表情。
だがそんな表情でさえも……
上総の心の奥の淡い想いに、さらに影響を及ぼした。
「……ち、違う……んです……」
…ぽたっ
「!!!」
上総の胸ぐらを掴む沙織の手に、
熱い雫が一粒、落ちた。
突然、上総が泣き出したのだ。
「……ごっ、ゴメン!!! な、泣くなんて……」
上総の涙により、一瞬にして自分が悪人に
思えてきてしまった沙織は、両手を上総から離し、ひたすら謝る。
泣くつもりなどなかったのだが、
その怒った表情も、また…
亡くした妻にうり二つだったため、感極まってしまったのだ。
涙を止めようにも、一度流れ始めてしまった涙は、
なかなか止まらなかった。
「……う…う……っ……」
ついには、嗚咽まで漏れてしまう。
「き、桐島さん……?」
何となく、ただごとではないと感じた沙織が、
心配そうに上総を見つめる。
「…そ、そんなに泣きたくなるほど、あたしのことが嫌いなのかい?
ま、まぁいいや!ご、ゴメン!
しばらくあたしこっちには来ないようにするからさ!」
そう言って、逃げるように沙織が別館を後にしようとすると…
「…ま、待って下さい!!」
逃げる沙織の手を、今度は上総が捕まえる。
「………全て、話します…話しますから………」
どのくらいの時間が経っただろうか。
二人は、いつの間にか誰もいなくなった
食堂にある長椅子に、並んで座っていた。
しばらく、お互いに沈黙を続けた。
そうして、やっと落ち着いた上総が、少しずつ語り始めた。
「…僕は、6年前に妻を病で亡くしているんです。」
「………そ、そうなんだ………」
この事は、最近入社したばかりの沙織以外は
誰もが知っていることである。
だが、特に改めて教えることでもないと、
社員の誰もが沙織には教えていなかった。
そのため、その事実を初めて知った沙織の驚きは、
言葉の驚きは少ないものの、心の内の驚きは尋常ではなかった。
「でもそれと…あたしと…何か関係があるっての?」
上総とは最近知り合ったばかりだし、
上総の妻のことなど、全く知らないし、面識もない。
何故自分が関わっているのか、沙織は不思議でならなかった。
ゆっくりと、少し言いづらそうに。
上総は口を開く。
「……貴方は……その、僕の妻にそっくりなんです…
………容姿はもちろん、その表情、仕草までも………
まるで妻が生き返ったのかと思うほど……」
そこまで言い終えると、上総はまたしても涙を流し始める。
「…こんなこと…貴方には大変失礼なのは承知なんですが…
貴方を見ていると……自分を抑えられなくなってしまいそうで……
……貴方をどうにかしてしまいそうで……だから……」
沙織は黙っていた。
怒りも悲しみも感じない。
ただ……上総がとても哀れに思えた。
となりで小さな嗚咽を漏らし、震えながら泣く上総はまるで…
羽根を無くした天使のように、『無垢』そのものに見えた。
その天使を……救ってあげたい、力になってあげたい。
そう思った沙織は、涙する上総をそっと、自分の胸に抱き寄せる。
「…あんたみたいな、心が綺麗で純粋な男、初めて見たよ」
淡い微笑みを浮かべながら、沙織は上総の頭をそっと撫でる。
「…あたしは1回、結婚に失敗してるから…
男なんて、汚れた人種だって、ちょっとだけ思ってた。
…でも…あんたは…」
沙織は、自らの胸に埋めさせていた上総の顔を、
両手で自分の視線まで持ち上げる。
「………いいよ、今夜だけ。 …あんたの奥さんになってやるよ。」
それからのことは、よく覚えていない。
ただひたすら……沙織を抱いた。
それだけは覚えている。
自らの隣で、かすかに寝息を立てる裸の肩を見つめながら、
上総は一人、空を見つめた。
「……奏子は、死んだんだ……」
沙織を奏子の代わりとして抱いたはずなのに。
その結果…
桐島奏子はもう、この世にはいない。
今、自分の隣にいるのは……蔵石沙織。
それを、身を以て知ってしまった。
「……沙織さん……」
上総は、沙織の長い髪に、そっと触れる。
奏子はショートヘアだった。
奏子には無かった、長くて艶やかな髪。
その髪の1本1本までもが、今、上総にはとても愛おしく思える。
それは、沙織を『桐島奏子の代理』としてではなく。
『蔵石沙織』という、一人の女性として見つめ始めているという、
確かな証でもあった。
END