今にも雪が降りそうな、とても寒い日のこと。
「あーーーーもーーーーちょーーーーーーぉおおさむいーーーっっ!!」
室内だというのにコートを脱ごうとしないみはるが叫ぶ。
「寒いですわね……予報では雪が降るかも、と言っていただけに……」
持参した使い捨てカイロで、かじかんだ手を温めながら呟く結佳。
「でもこういう日こそ肌が引き締まって頭も冴えてお仕事しやすいと思うけどなっ」
普段から身体を鍛えてるせいか、寒さにめっぽう強い愛子が、
ペンをくるくる回しながら言う。
「こんな日でも半袖でケロッとしてる愛子ちゃんが絶対ヘンだよっ!」
「今日は本当に寒い『みたい』ですねー。お茶でもいれましょうか?」
と、のんきに言い放つのは、体質的に寒さはまるで平気の雪彦。
「とかいってつめた~い麦茶とか出さないでよねっ烏丸くん!」
あはは、そんなまさかーと笑いながらも、
烏丸の机の上には冷たい麦茶が置いてあったりする。
そんな購買部の面々とみはるが談笑しているところに開発研究室の上総が現れた。
「皆さんお疲れ様です。今日は本当に寒いですね」
何故かいつもの白衣を脱いで、エプロンを着用している上総からは、甘いにおい。
「桐島さんこんにちわぁ~!………こ、このにおいはっ……??」
すかさず愛子が指摘する。
「あ、はい。休憩時間に湯沸かし室のオーブンを拝借して、クッキーを焼いてきました。
下ごしらえは自宅でしておいて、生地をたった今焼いたので焼きたてですよ」
なにい!?
同じフロア内の全社員の目の色が変わった。
何しろ上総のお菓子作りの腕とその味がプロの菓子職人に劣らないのは、
社内で知らない者はいない。
「寒いですし熱い紅茶でもいれて、一緒に……」
上総が一言添える前に既に数人の手が我先にと言わんばかりにクッキーの皿に伸びていた。
「んーーおいしー♥♥ 寒さふっとぶねっ」
「みはるちゃん早速食べ過ぎっ!私にもー!」
上総は、仕方ないなぁと言った表情で苦笑いしながら、
お茶をいれるために湯沸かし室へと足を向けた。
残り少ないクッキーと温かい紅茶を囲みながら談笑していると、
「あーっ、雪だ!」
みはるが窓の外を指さす。
「スゴイ降ってますネー。これは積もるカモしれないですネ。
終業時間までにそんなに積もらないとイイんですガ」
「あれっ、そういえば……奥田部長はどうしたんですか?」
「奥田さんは、確か千葉支社で会議があるとかで外に出ていらっしゃいます」
……と、答えた結佳がクッキーの最後の一枚を口にしたその時。
「ただいま」
頭と肩に少しだけ雪を積もらせた早瀬が会社に戻ってきた。
その瞬間、誰もが気づいてしまったのだ。
貴重な上総の手作りクッキーを、誰もが早瀬の分を取っておこうと思わなかったことを。
「お、おかえりなさいっ!おつかれさま奥田さんっ!」
しまった、という顔をしながら、とりあえずみはるが挨拶をする。
飲み終わった紅茶のカップと、甘いにおいの残る場をみて早瀬は状況を把握した。
そしてクッキーを一口かじったまま気まずそうに黙っている結佳に視線をやる。
「そういえば休憩の時間か…」
「桐島さんがクッキー作ってくれたんでみんなで休憩してたんですよ~」
誤魔化したところでどうしようもない、と愛子が軽く説明する。
「ご…ごめんね、ぜんぶ食べ終わっちゃったの……えへへ」
「そうか。もう少し早く帰ってくれば良かったな」
早瀬は自分の分のお菓子がないくらいで目くじら立てるような子供ではない。
だが雪で濡れたコートを脱ぐ後ろ姿は少しだけ寂しそうにも見えた。
「わ…わたし、お茶いれますね、寒かったですものね!」
さりげなく食べかけのクッキーを隠しながら、結佳が湯沸かし室へと足早に去っていった。
それから数日後。
寒い日が続き、この日も例外なく寒さのこたえる日であった。
(今日も寒いな…もう少し仕事を片づけたら、お茶でもいれるか)
終業時間が過ぎ、総務部、同じフロアの購買部、人事部の面々は、
早瀬を除き全員が退社したと思われたが…
突然、目の前に温かい紅茶が差し出された。
「お…お疲れ様です、奥田さん」
「ああ…関口か。まだ帰っていなかったのか」
「は、はい。そろそろ帰りますけど」
どういうわけか結佳は、緊張しているように見える。
どうした?と問う前に結佳があからさまに、どこからともなくタッパーを取り出した。
「奥田さん、クッキー食べてもらえませんか?
先日桐島さんが作ってるのを見てわたしもなんとなく作りたくなってしまって、
作ってみたんですけど、いっぱい作り過ぎてしまったんです」
そう笑って説明するも、クッキーの入ったタッパーを持つ結佳の手は
ほんの少しだけ震えている。
「…もしかして、この間の雪の日のことでも気にしてるのか?」
「そんなんじゃないです!ちゃんと奥田さんへの贈り物として作るなら
こんなタッパーなんかに入れてきませんわっ!」
真っ赤になりながら反論する結佳を見て、理由なんて別になんでもいいかと思った早瀬は
小腹が空いていたのも手伝って無言で手を伸ばす。
「あ、ちゃんとお皿に盛りますから………あっ」
かしゃん!
「あ……」
不運なことにタッパーは逆さまに落ち、全部床にばらけてしまった。
せっかく食べて頂けそうだったのに…!
「ご、ごめんなさい、拾います、拾いますから!また新しいの今度持ってきますから……!」
泣き出しそうになりながら慌ててクッキーを拾おうとする結佳の手よりも先に、
早瀬の手が素早くクッキー1枚を拾い上げ、そのまま口に運んだ。
「……うん、うまいな」
落としたことなど全く気にも留めずに、クッキーを味わった早瀬は、
普段見せたこともない穏やかな笑顔を見せた。
その笑顔に度肝を抜かれた結佳は、感情が一気に高ぶり目から涙が吹き出す。
「私だけがもらうのは勿体ないくらいだな……………おい、どうした?」
クッキーの出来をを手放しで褒める早瀬の言葉など耳に入っていない、
というくらいの勢いで、結佳は泣いていた。
「……そっ、……そんな……落としてしまったのに……食べていただけるなんて……」
「そんなこと、泣くような程のことでもないだろう」
「だ、だって…!わ、わたし、桐島さんほどの腕はないですけど、
手作りクッキーをどうしても奥田さんに食べてもらおうと、昨日頑張って作って……」
結佳は感情に任せて、クッキーを作った理由を吐き出すと、ハッとした。
なんとなく作ってみて余ったから、持ってきたんじゃなかったのか?
自分を見つめる早瀬の目がそう語っている。
嘘を貫き通すはずが、自分から暴露してしまった。
「……これは……本当に、俺のために?」
結佳は、嘘がばれた恥ずかしさで顔を耳まで真っ赤にしながら、
手早く落としたクッキーを拾い集めた。
「こ、今度また新しいの作ってきますから!落としてごめんなさい!
それは捨ててしまってください!お疲れ様でしたっ!!」
と早口で言い残すとその場から逃げるように去った。
先日のことがあったにしろ、まさか本当に自分だけのためにクッキーを作ってくるなんて、
内心思っていなかった早瀬は、残されたクッキーを見つめながら、しばらく呆然としていた。
翌日。
「結佳ちゃんが、なんか変。」
結佳は、みはるが何を話しかけても、心はここにあらずといった感じで、
ぽやーーっと物思いにふけっていた。
早瀬がクッキーを口にした時の、あの笑顔が忘れられない。
嘘はばれてしまったし、今度はきちんとしたものを贈って、
今度こそ心から喜んでもらおう。そう思っていたら、
「おはよう」
早瀬がオフィスに入ってくる。朝のミーティングの始まりである。
「……以上で、業務連絡は終わりです」
連絡事項を伝え終えた早瀬が業務日誌を閉じる。
「ああそれと、関口」
「は、はいっ!?」
突然呼ばれた結佳は驚いて、メモを取っていたペンを机上に落とす。
「『昨日の』は全部頂いた。ありがとう。美味しかった。」
「あ……あれ全部食べたんですか―――――!!?」
いったい何のことかわからない他の社員たちが、目を丸くする中で、
驚きと嬉しさと恥ずかしさで倒れそうになる結佳であった。
(おしまい)