一夜が明けた。
「あら、おはよう。今日はずいぶん早いのね、みはる」
昨日の寝坊のドタバタが嘘のような早起きに、母は驚く。
母の言葉に、一夜明けても自分が『みはる』のままであることを確認する、みひろ。
(まだ……夢の続きなんだ……)
起きて、自分の自室であった部屋を確認してみたが。
昨日までは置いてあったような気がする、私物、大学の教材など。
はじめから何も無かったかのように消えていた。
だが、そんなことは、もうどうでもいい。これは夢なのだから。
私は、みはる。大島 橘さんの婚約者。
みひろは、自分に都合のいい夢を満喫していた。
……自分が存在していなくても、なんの不都合もなく進んでいく日常に、
心の奥では悔しく思いつつも。
「おはようございます」
朝の森川家に、橘が訪れてきた。
「あらぁ!大島さん。わざわざ迎えに来てくれたんですか?
あ、そうよねぇ。昨日みはるったら、遅刻しかけたものねぇ」
「い、いえ!今日は朝余裕があったので、たまには、と思って……」
「だらしない奥さんで、ほんとごめんなさいね。
……みはる!大島さんが迎えに来てくれたわよ!早く支度なさい!」
「もう、支度できてるよ。
……おはよ、橘くん。迎えに来てくれてありがとうね」
「割と早めに迎えに行ったのに、もう準備万端だなんて珍しいね、みはるちゃん。
いつもなら頭ボサボサにしてドタバタしてるのに」
「うん。今日は、早く目が覚めたから」
駅に向かう小道を、橘とみひろは二人並んで歩く。
その姿は、誰が見ても恋人同士。
ずっとずっと……みひろが夢見ていた光景だ。
談笑しながら歩いていると、若者の男女の団体とすれ違った。
大学のサークルか何かの集まりのようだ。
「すごい人数だ。大学のサークルかな。大学生は楽しそうだなぁ。
……そういえば、みはるちゃんは高卒で会社入ったんだよね。
大学行こうとは、思わなかったんだっけ?」
そういえば、みはるは何故、高校を卒業してすぐに、就職を決めたのだろうか。
高校時代も、大学受験の勉強はおろか、大学選びすらしていた様子はなかった気がする。
だが、自分は……みはるではない。真相など、わからなかった。
「あ、あはは……あたし、勉強苦手だし……み、」
「み?」
『みひろちゃんと違って』勉強は苦手。
そう言葉を続けようとして、みひろは口をつぐんだ。
みひろはこの世界には存在していないのだ。
母に『みひろ』の存在を否定されたことは当然ショックであったが。
最愛の橘にまで存在を否定されたくはない。
無意識の防衛本能が働いた瞬間であった。
(みひろちゃん、か………そういえば、昔はみはるからは、
『お姉ちゃん』って呼ばれてたけど…いつからだろ、名前で呼ばれるようになったの…)
ふと、そんなことを思い出しつつ。
二人は会社へと向かっていった。
「何か、嫌なことでもあったのォ?みはるちゃん」
会社にて。
総務部の同僚の、成沢 明に突然そう問われた。
「……え? そんな風に見えますか?」
「え~、だってぇ、なんというかぁ、昨日から、すっごく落ち着いてて、
仕事てきぱきこなして、ボクが買ってきたお菓子にもあんまり手をつけないで
真剣に仕事してるんだもン♪」
「真剣に仕事をすることの何が悪いんだ。良い事じゃないか」
そう、明の言葉に突っ込みを入れるのは、総務部長の奥田早瀬。
「そぉねぇ♪ ……でも、なんかみはるちゃん、いつもより大人しいから、
落ち込んでるのかなぁって思って。な~んかオフィスが、静かなカンジ♪」
きっといつものみはるなら、無駄に元気が有り余って明るいからであろう。
「落ち込んでなんてないですよっ…あ、そろそろ休憩時間だし、お茶入れてきます!」
同僚達の視線から逃げるかのように、みひろは湯沸し室へと走っていった。
ほどなくして、みひろが総務・人事部の人数分のお茶を持って戻ってくる。
「お茶持って来ました」
お盆の上に並べられた湯飲みを見て、その場にいた何人かがいつもとの違和感に気付く。
「あ……あれ……僕の湯飲みが、ないです……」
まず口火を切ったのが、人事部の西城寺初南賛。
「えっ…」
バイトでたまに来る程度のみひろでは、
当然誰がどの湯飲みを使っているかまでは、把握できていなかった。
食器棚に収められた湯飲みを見渡して、
普段使い込んでいそうなものを取り出してはみていたのだが。
「私はいつも、コーヒーを頼んでいたのだが……まあ緑茶も飲めなくはないが」
次に突っ込みを入れてきたのが、早瀬。
湯飲み同様、社員の好みまでも把握はできていない。
お茶を一口飲んで、最後に明が物申す。
「……なんだろ、いつもと違う味がする気がするぅ?お茶が。」
「ご、ごめんなさい……!」
特に怒られたわけではないが、何か皆に責められた気がしてしまったみひろは、
顔を真っ赤にして肩を落とす。
「やっぱり、いつもと調子が違うね、みはるちゃん。
なにかあったの?何か悩みでも、あるの?」
心配そうに、明が問いかけてくる。
橘と婚約したことは、まだ社内の誰にも伝えていない。
だが、そのことを伝えたところで……本物のみはるならば、調子が悪いどころか、
幸せいっぱいで悩みなんて全く感じられないはずだ。
かと言って、自分…『みひろ』の存在を明かして、
また他人から自分を否定されるのは、怖い。
『みはる』としても、『みひろ』としても不完全な、今の自分。
みひろは、身動きが取れなくなってしまった。
「黙っていて、すいません。体調が悪いので、今日は早退しても、いいですか…?」
夕暮れの公園で、呆然とベンチに座る、みひろ。
夕方とはいえ、今日も暑い。
しかしそんな暑さを忘れてしまうほど、みひろは思いつめられていた。
(よく、考えたら……一番かわいそうなのは、みはるだ……
あたしに人生を乗っ取られて…本当なら、これから、幸せな花嫁さんに、なれるのに……
あたしは、姿はみはるだけど……心だけ残って、存在が消えちゃった)
普段、誰も何も言わないが、会社の面々は無意識に、
みはるの元気と笑顔に毎日癒されていたのだろう。
社員の湯のみや、好み、お茶の入れ方。
毎日欠かさずお茶くみをしてきていた、みはるにしかできないことである。
(みはる…みはるは、やっぱりすごいよ……
何気ないことかもしれないけど、誰からも必要とされている。
…どうして…みはる、どこ行っちゃったの?なんであたしの心なんかが残ったの?)
「……みはるちゃん。ここにいたんだ。
体調悪くて早退したって聞いたから、びっくりしたよ」
今にも泣き出しそうなみひろの前に、橘が現れた。
もう、今すぐ真相を話したい。
橘に『みひろって誰?』と言われるのは怖い。
だが、それ以上に。みひろは、消えてしまったみはるのことが心配だった。
自分はもう消えてなくなってしまってもいい。
みはるに、みはるの人生を返してあげたい。
様々な思いが脳裏を駆け巡るが、言葉にならない。
みひろは、橘に何も答えず、ただただ大粒の涙を流し始めた。
無言で涙を流すみひろに驚いた橘は、なだめるように、みひろの両頬を手で覆う。
橘の両手の大きさに、胸の鼓動が一瞬、早くなる。
『みはる』を心配する心が、手を伝わって感じてくるようにも思えた。
もう、みひろに迷いはなかった。早くこの手に、本物のみはるを返さなければ。
「……今まで、黙っていて、ごめんなさい、橘さん……
あたしは、みはるじゃない。みひろなの……みはるの双子の姉なの」
否定されるのを承知で、みひろは声を搾り出すようにして真相を語った。
まるで死刑宣告を待つ囚人のように、泣きながら震えるみひろを……
橘は、優しく抱きしめてあげた。
「……やっと、話してくれたね。みひろちゃん」
みひろって、誰?
双子の姉って、嘘でしょ?
そんな答えを恐れていたみひろは、耳を疑った。
「この世界を創ったのは、君だよ。けど、自分を否定しちゃだめだよ。
みひろちゃんにはみひろちゃんの、魅力があるんだから」
「な……なに、言ってるの……? あ、あたしなんて、みはると比べたら……」
「比べる必要なんてないよ」
「な、なによ……橘さんだって、みはるの方が、いいくせに……」
「……確かに、僕の彼女はみはるちゃんだけだけど……
君も、僕の大切な女の子には、変わりないから」
「………!?」
「みひろちゃんが、みはるちゃんになる必要なんて、ない。
僕は……強気で、小悪魔的で、頭良くって、勉強家で……とっても妹思いな、
みひろちゃんが、一人の人間として、すごく好きだから。
君が頑張ってる姿見ると、僕も頑張らなきゃって思えるんだ。だから……」
自分なんて、いてもいなくてもいい。
明るくて、かわいくて、誰からも愛されるみはるだけが、いればいい。
心の奥で、そうずっと悲観していたみひろの心が、満たされていく。
「みひろちゃんは…そのままで、いいんだよ」
最後まで恋人になることは、できなかったが。
恋人でない自分にとって、最高の言葉をもらえた。
橘は、みはると比べることなく、みひろの良いところも、ちゃんと知っていた。
「ありがとう……橘さん……」
悲しみに沈んでいたみひろの涙が、うれし涙に変わり…ようやく笑顔を見せると。
橘の腕の中から、その姿は、静かに消えていった。
(つづく)