「……うん、うん。そう。ごめんね。ちょっとうちの来客が酔っ払ってて」
大声を聞きつけて、何事かと駆けつけた社員寮管理人に
玄関口で夜半が適当に言い訳をして謝っている。
ついでに言えば、管理人が訪ねてきてドアを開けた瞬間に漏れ入った朝日を、
渉はまたしても浴びてしまい、顔に火傷を負った。
朝日の光が命取りであることを、蔦子の目の前で証明してしまったのである。
もしかして、一度傷を治してくれたのはこれが狙いだったのか。
してやられた………
最早言い逃れできる可能性が極めて低くなった現状に、渉はへなへなとその場に座り込んだ。
渉は、蔦子の顔を見るのが怖くてたまらなく、顔の傷ごと自分の視界を手で覆う。
一方の蔦子は―――――。
「白鳥部長、流しお借りしますね」
水道で、持っていたハンカチを濡らして絞ってくると、渉のそばに駆け寄った。
「大丈夫?とりあえず、これで冷やして。渉ちゃん、紫外線苦手だものね」
心配そうに、いそいそと渉の頬をハンカチで拭う蔦子。
(もしかして……もしかして、ワンチャン、ただの日焼けだと思ってくれてる…!?
さっきの御真祖様の一言を聞き逃してくれていれば……!!)
わずかな可能性に、渉は藁にもすがるような思いで祈った。
「それにしても、やっぱり渉ちゃんって吸血鬼だったのね」
が、その期待はいとも簡単に崩れ落ちた。
「あ……あぁ………」
もうダメだ。
渉の心の中がみるみるうちに絶望の闇で満たされる。
はるか昔に、婚約者に拒絶された過去が蘇る。
「その程度の火傷なら、しばらくすれば治るよ。
日が高くなるまで奥の寝室とか使っていいから、休んでから帰るといい。
日よけのコートや手袋なんかは、貸すから。
俺は、ちょっと早いけど出勤する。あとは好きにして」
そう言い残し、コート類と部屋の鍵を蔦子に預けると、夜半は外出した。
「ちょ、ちょっとごしん……っ、白鳥さん……!」
このいたたまれない空気の中二人きりにされてしまった渉は
助けを求めるように夜半を呼んだが、彼は応じてくれなかった。
(蔦子ちゃんなら…………。まぁ、頑張れ、渉くん)
それから3時間ほど経ち、太陽もだいぶ高くなってきた。
渉の火傷はすっかり癒えていた。
心の傷は全く癒えていなかったが…。
「渉ちゃん。もう大丈夫?私も仕事あるから、そろそろ行かないと」
「あ……はい……行ってらっしゃい……」
「ばかねぇ、何言ってるの。渉ちゃんも帰らないと。ここは白鳥部長のお家よ」
「……帰って、いいの?」
自分は吸血鬼だ。そしてそれをずっと彼女に隠してきた。
そんな自分が、彼女と同じ屋根の下で暮らすことは最早許されない。
そう思っていた渉は、許しを請うように尋ねた。
「僕は吸血鬼だよ、人の血を吸って生きる化け物だよ。
もう181年も生きてるよ。そんな僕を……蔦ちゃんはなんとも思わないの?」
渉の涙ながらの問いに、優しげだった蔦子の顔が……曇る。
「なんとも思わないわけ……ないでしょう……」
「!!!」
怒りさえ感じる、重く、低い声。
「ちょっと……許せない、かな」
やっぱり、だめだった。あの時の二の舞だ。
最愛の彼女から、これからどんな罵詈雑言を浴びせられるのか……いや、
汚い言葉でなくとも、「嫌い」「離れて」「別れて」……。
そんな一言だけでも受けようものなら、その場で灰と化してしまいそうだ。
しかし、今の今まで騙してきた自分は、彼女の気持ちを聞く義務がある。
渉は、口を堅く真一文字に結び、目をぎゅっと閉じた。
「……とりあえずはここを出ましょう。歩きながら話すから」
社員寮から、自宅までのそれほど長くない距離。
二人は、今までの夫婦人生を振り返るが如く、ゆっくりと歩いた。
渉は、夜半から借りた大きめのコートを羽織り、手袋にマスク姿。
それでも昼間の明るさはしんどかったが、そんなものは気にならないくらい、
今は身体のダメージより精神的ダメージのほうがはるかに大きかった。
いっそこのまま、灰になってしまいたいとすら思っていた。
そんな身も心も瀕死な渉のことはお構いなしに、蔦子は口を開いた。
「渉ちゃん、血が欲しくなったら、ゆうべみたいに夜中に出かけて、
通りすがりの人の血を吸っていたんでしょう?
ずっとそうやって生きてきたんでしょう?100年以上。」
「う……うん……」
「もちろん、私と出会ってからも、よね?
どんな人の血を吸うの?大人?子供?……女の子?」
畳みかけるように問いかける蔦子に、おどおどと答える渉。
「あ……えと……女の子が多かったかな……」
「…それよ」
渉の答えに、蔦子が眉間のシワを、より深くさせた。
「…他の女の子の首筋に噛みついて血を飲んでたなんて。
そんなの……なんか嫌。なんで、私じゃなくて他の女の子なの?
私の血は、美味しくなさそうだったの?」
「あ…………」
蔦子の「許せない」こと。
それは吸血鬼という素性を秘密にしていたことでも、
化け物だからということでもなく。
純粋に「他の女の子に夜な夜な噛みついて血を味わっていた」という
言わば「不貞行為」のようなものに対してであった。
「私にとって、渉ちゃんが人間じゃない何者であろうと、関係ないわよ。
吸血鬼だろうと、狼男だろうと、犬だろうと猫だろうと、
渉ちゃんが渉ちゃんなら、なんだって構わない。
悩みがあるなら打ち明けてほしいし大変な時は支えてあげたい。
……渉ちゃんは、そうじゃなかったっていうの?」
「そ、そんなわけないじゃないか……!ぼ、僕は…!!」
慌てて弁解しようとする渉に、蔦子はもう一歩近づいて、日傘を持ちながら寄り添った。
「…なんてね。渉ちゃんが何の理由もなしに隠してたなんて思わないし、
もちろん浮気する器用さも度胸もないことくらい、知ってるから。
噛み付いて傷つけたくなかったんでしょ、私のこと」
「蔦ちゃん……」
「だからね、私にふたつだけ約束…というか、お願い、きいて。
ひとつは…血が欲しかったら、いくらでも飲んでいいから、なるべく私からだけにして」
「……ほんとうに……いいの……?」
「当たり前でしょ。むしろ知らないところで他の女の子に噛みつかれる方が、嫌だから。
そういうヤキモチって、変かしら?
渉ちゃんだって、自分の知らないところで私が他の男の人と抱き合ってたら、嫌でしょ?」
渉は、首を激しく縦に振る。
大切に大切に愛してきた蔦子を他の男に触れさせるなんて、言語道断だ。
「それと、もうひとつは…
……私を……私が、死ぬまでは渉ちゃんの奥さんでいさせて?」
「死ぬまで」奥さんでいさせてほしい。
それは、寿命の違う渉との人生を、これからも変わらず…
死ぬまで歩み続けたいという、蔦子の決意表明でもあった。
「正直ね、なんとなく気づいてたの。
渉ちゃんが、私とは違う時間の流れを生きているというか、
年下なのに、実はそうじゃないんじゃないかっていうの。なんとなく…」
ひと回り以上年下のはずなのに、時折見せる包容力や貫禄。
そして夜しか行動しない、夜中に時々姿をくらますなど、
共に生活する中で、蔦子は全て感づいていたのだ。
「だから今回、ハッキリしてちょっとホッとしちゃった。
でもやっぱり、それが確定したところで気持ちは全く変わらなかったかな。
渉ちゃんが何者であろうと、私は渉ちゃんの奥さんでいたいの…ダメかしら?
あ!でも私の血が美味しくなかったら困っちゃうわねぇ、ふふっ」
180年以上も生きているのにも関わらず、心が狭い自分の未熟さを痛感し、
自分の想像の斜め上を行く、蔦子の愛情の深さを目の当たりにした渉は、
感情が一気に高ぶって、涙ぐみながら蔦子の上着の襟首を引っ張ると、
首筋に……小さく、それでいて確実に深く、噛みついた。
「…痛っ」
ほんの一瞬の出来事。
周りに人はいたが、傍から見れば彼氏が首筋にキスしただけのようにしか見えないだろう。
渉は蔦子の首筋から微量、血を吸った後、紅く滲んだ噛み傷をひと舐めした。
唾液を付着させることにより、吸血鬼の高い自己治癒力を分け与えてすぐに傷を塞ぐことができる。
その間、わずか数秒。
渉は、まだ何をされたのかよく理解できずに呆けている蔦子の両肩を掴んだ。
「……不味いわけない。ずっとずっと、本当は、飲みたくてたまらなかったんだ。
すごく、すごくすごくすっごーく美味しいよ蔦ちゃん!!
もうずっと蔦ちゃんのしか飲みたくないくらい!独り占めしたい!誰にも渡したくないよ!」
渉は人目もはばからず泣きじゃくりながら、蔦子を強く抱きしめた。
「ふふっ……何よそれ。最初からそうしてれば良かったじゃないの……」
蔦子は、今まで苦しみながら押し殺してきた秘密を打ち明けてくれた夫を労うように、
優しく背中に手を回して撫でた。
二人は、ようやく本当の意味での「夫婦」になれた気がした。
「こんばんは~っ!」
あれから数日後、すっかりと馴れ馴れしくなった渉が、
日が沈んでから夜半の家に訪ねてきた。
「初対面の時の腰抜け具合が嘘のようにぐいぐい来るようになったね…渉くん。
別にいいんだけど」
「だって、白鳥さんLINEもインスタもツイッターも難しくてできないって言うから
携帯に電話して直接お話するしかないじゃないですか!」
「なら別に押しかけてこなくても要件なら電話で…」
「僕あれからですね、蔦ちゃんにも勧められて
みんなに本当のことを話したんです!!」
呆れる夜半をよそに、渉は勝手に話を進め始めた。
「みんなってまさか…まんちゃん夫妻とかに、かい?」
「ええ!そうしたらみんな『へぇ~~そうだったんだ!』くらいにしか
驚かなくて、すんなり受け入れられてビックリしましたよ!」
「…………」
満も芹子も…さすが、
奇人変人、そして人外まで揃うねぎ秘密結社の社員というべきか。
「孫たちに、だから『おじいちゃん』って呼んでねって言ったけど、
それは断られちゃいましたね~~はっはっはっはー」
「まあそれは…あきらめた方がいいんじゃない。
……ところで、何か大荷物かかえてるけど、それは一体」
「あ、先日のお礼に、白鳥さんにご馳走をふるまおうかと、色々用意してきました!」
「ご馳走…?別にいいよそんなの」
面倒くさそうに断ろうとする夜半だが…、
「甘いもの好きですよね?蔦ちゃんが新鮮なフルーツいっぱい仕入れてくれたんで、
チョコフォンデュでもしようと思って、一式持って来たんですけど」
「…………まあ少しなら」
言葉通りの甘い囁きに、一瞬で気を許す。
「やった!今みんな来ますから、早速準備しますね~!」
「…ちょっと待って、『みんな』?」
はしゃぐ渉は、夜半に許可も得ずに上がりこむ。
その後、さらに押しかけてきた蔦子と、子供二人を連れた遠山夫妻と共に
賑やかなチョコフォンデュパーティーに巻き込まれる、夜半であった。
(おしまい)