(……つい……飛び出してきてしまった……)
ゆたかから照美の名を出された瞬間、どういった顔をしていいか分からなくなり、
とっさにオフィスを飛び出してしまった次郎は、
非常階段の踊り場で息を切らしながらたたずんでいた。
(ほんと……情けないな……なのに、なんでこんな自分が課長、なんだろう……)
”きっと南十字部長もホメてくれますよー☆ ”
ゆたかの言うとおり、次郎は照美に”一人前の男 ”として認めてもらうために、
日々の仕事を精一杯頑張って来た。
そしてその努力の末、今日の昇進へと結びつき、最高と言ってもいい結果が出されたのだが。
”僕がもっと、自分に自信が持てるしっかりした男になるまで……
待っていて、もらえませんか。”
(……あんな、偉そうな宣言を照美さんにしておいて……それなりの結果が出た今も、
結局、どうしていいか分からない……分からないんだ……)
あの時、自分に自信さえあれば、昇進など関係なしに、堂々と照美に告白しても良かった。
だがそれが出来なかった。自分と照美の職位の差、年齢の差。
そういった余計なコンプレックスが邪魔をして、結局は時間稼ぎのための
”いい男になる宣言 ”であったとしか思えなくなってきた次郎は、
頭を抱えてフェンスにうなだれた。
次郎は、涙目になりながら。
あいにくの曇り空を見上げて、つぶやいた。
「……自分に自信が持てないと、いつも、兄さんみたいな格好いい男だったらな、
って思ってしまう…
それじゃ、ダメなんだって、教えてくれたのは照美さん……なのに……」
涙を拭いて、乾かして。
次郎はようやくオフィスに戻ってきた。
「あっ、泉課長おかえりなさいデス」
「泉課長☆おっかえりなっさ~い☆
吉村部長が置いていった浅草の豆大福が超☆ウマーですよ☆」
悟史は取引先との商談のために既に出かけており、
営業部には書類整理をする事務のクリスと今日の仕事は終えて、
お茶菓子を頬張りながら溜まっている営業日報をしたためるゆたかの姿のみがあった。
次郎は、ゆたかから差し出された豆大福ひとつを受け取ると、
豆大福……和菓子を見つめ、実家が和菓子屋である照美の顔を思い浮かべた。
「そういえば、南十字部長の実家って、有名な和菓子屋さんなんでしたっけ☆」
「そ……そうっスね」
考えていることを読まれた?と、次郎は一瞬どきりとするが、平常心を装って答える。
ゆたかは、遠慮もなしに次から次へと、箱から豆大福を取り出しては剥いて、食べる。
「地元じゃ超有名な、老舗の和菓子屋さんだって聞いたし、きっと美味しいんだろうなぁ☆
…………南十字部長のお婿さんになったら、毎日食べ放題、かなぁ?」
「……… !?」
ゆたかの意味深な発言に、次郎は額に汗をかく。
次郎の期待通りの反応に、ゆたかは指に付いた豆大福の粉を舐めとりながら、
したり顔で笑う。
「泉課長、南十字部長のために超頑張ってたでしょ☆オレも負けてられないなーって☆
でも、仕事じゃ勝ち目なさそーだから、オレは今のオレのままで、
勝負させてもらいますね☆」
「さ……榊くん…… !? い、いい、一体……どうして……」
「あるぇ? 言いませんでしたっけ?☆ オレ南十字部長みたいなちっちゃい女の子
超タイプだって☆ タイプっていうか、ぶっちゃけ好きなんですけどねー☆」
「ええええええ !!!??? さ、榊くん照美さ……みっ、南十字部長のこと !?」
後輩からの突然のライバル宣言に、次郎は目を回しながらよろけて、慌てふためく。
まさかの宣言であった。以前、『南十字部長みたいな子がタイプ』とは
確かに聞いていたものの…ゆたかは去年入社したばかりの新入社員、
当然ヒラ。そして照美とは歳が10歳も離れている。
ありえない。と、心の奥では思っていた。
「確かにオレは新人でハッキリ言って18の子供だし、
南十字部長とは10歳も離れてますけどね☆
そんなの関係ないでしょ。好きなものは好きなんですから☆
オレが男で南十字部長が女。それだけで十分だと思うんですよねー☆」
年齢やキャリアの違いに多少の差はあるものの、条件としては次郎とほぼ同じ…
いや、ゆたかは次郎より明らかに不利といっていいだろう。
だが……。
次郎は、自分が長い時間を掛けて悩んでいたことを、
あっさりと一蹴するゆたかを唖然として見つめるしかできない。
ゆたかはオフィスの時計に視線を向けた。
”キーン コーン カーン コーン… ”
ちょうど終業時間のチャイムが鳴る。
(時間、ピッタリ☆)
時間通りに帰る気満々であったゆたかは、机の下に用意してあった自分の荷物を抱えると、
更衣室に向けて歩き出した。
「それじゃ、お疲れ様でーす☆」
「さ、榊くん !!! 待………」
このまま行かせるわけにはいかない。
とっさにそう思った次郎がゆたかを呼び止めるが。
何と言って止めればいいのか、思いつかない。
ゆたかは、一瞬だけ足を止めるが、
歯がゆそうな表情をする次郎に満面の笑みを向けると、
「待ちません☆」
そう言い残し、次郎に追撃の間も与えさせないほどの俊足でオフィスを去っていった。
(照美ちゃんが今日何時ごろあがるかって?
今日はヒマだったし定時で上がって買い物行くって言ってたな~)
次郎がオフィスに戻る前に、事業企画部の蔵石沙織に内線で
照美の終業予定を訊いていたゆたかは、社員通用口でこっそり照美を待ち伏せていた。
(あとは、運よく一人で出てきてくれれば、なぁ……
……まぁ、誰かと一緒でも色々と手の打ちようは、あるけど☆)
通用口の影でひっそりと隠れて待っていると、期待通りに照美が一人で通りがかる。
(ん~今日はヒマだったわねぇ…。まあ、こういう日もたまには、ないとねぇ。
お給料も入ったし、新しい服でも買おうかな……
……それとも……)
照美は腕時計に目をやる。まだ17時すぎ。
忙しい部署ならば、まだほとんどの者が社内に残っているだろう。
”そろそろ、君から、ご褒美があってもいいんじゃないかな~ ”
数日前の悟史の言葉を思い出す。
(……おめでとう、の一言くらいは、言ってあげたほうが……
いや、ヒラからいきなり課長よ……? それだけで、いいのかしら……)
次郎は照美のために頑張っていた。その結果の昇進である。
素直にすごいと思うし、自分のためかと思うと嬉しくも思う。
間違った行動だとも思わない。だが……。
(あたしは彼に、何をして欲しいの?
……彼はあたしに、何をして欲しいの?)
このまま黙って、まだ次郎がいると思われる会社を後にするのがもどかしく、
通用口で立ち止まったままの照美の背後から……
「みっなみじゅうじぶっちょ―――☆☆ お疲れ様で―――っす☆☆」
ゆたかが颯爽と現れ、照美を背後から羽交い絞めする。
「……ちょ !? 榊君 !? は、離しなさい !! 離し…離せこのクソガキ !!!!」
「やーですよー☆ 離さないですもんねー☆☆」
じたばたと暴れる照美をしっかりと抱えながら、ゆたかはこっそり、じりじりと
壁際に立ち位置を寄せると、ぱっと両腕を離した。
素直に離してくれたことにホッとした照美は、
壁際に追い詰められていることに気付いていない。
「全くもう!ちゃんとした挨拶ってもんを知らないわけ !? あなたは!」
「あはははは~☆ ごめんなさいっ☆
南十字部長見るとついつい抱きしめたくなっちゃうんです☆」
「このエロガキが――― !! あたしは帰」
「そういえば☆ 泉せんぱ……泉課長、昇進スゴかったですよねー☆
お祝いのデートとかしないんですかっ?☆」
照美に話題を切り上げられないよう、ゆたかは強引に話を進める。
「で…デートって……別に、付き合ってるわけじゃないし……
まぁ、めでたいことではあるとは思うけど……」
「そりゃめでたいでしょ☆ 泉課長、南十字部長のために今まで頑張ってたんですよぉ☆
そんなの分かってるくせにぃ☆」
照美は、ゆたかの軽い一挙一動に苛々していた。
そんなことわかってる !!! そう言い返したいことを、次から次へと軽々と吐き出す彼に、
苛立ちを覚えざるを得なかった。
「……か、関係ないし……そ、そもそも、昇進しろなんて頼んでもない……」
苛立ちから、つい強がりを吐いてしまう、照美。
本当はこんなことを言いたいんじゃない。
こんなこと思ってるわけじゃないのに。
素直になれないもどかしさに、悔し涙が出そうになる。
その隙を、ゆたかは見逃さなかった。
「泉先輩の仕事の頑張りも、昇進も関係ないっていうなら……
オレが、照美さんの彼氏に立候補しても、いいよね?」
”は!? ”
声にならない驚きの声を上げた照美だが、逃げ道はもうなかった。
壁際に追い詰められた照美は、急接近してきたゆたかに顎をつままれる。
「泉先輩も馬鹿だよね。年齢とか体裁とかばっか気にして、一番大事なこと忘れてる。
そんな泉先輩なんて放っておいてさ、オレにしない?」
(つづく)