[小説]―― 6月 ――(1)

小説/本文

6月28日。
経理部の成沢眞妃は、いつものように、
帳簿とにらみ合いながら、電卓を叩いていた。

……サ――――――――ッ……

(……あら……?)
突然涼しげな音がした。
眞妃は、そっとブラインドの隙間から外を覗いてみた。
(雨かぁ……これは酷くなりそうね……)
眞妃は、あらかじめいつも机にしまってある置き傘を取り出した。
少し古びた、折りたたみ傘。
ちょっとだけ、神妙に傘を握りしめ、眞妃は
机にある卓上カレンダーに目をやる。
6月28日月曜日。
(もう…1年になるのか……)

1年前の――――――6月29日。
ちょうど、こんな酷い雨の日だった。
自分と時を同じくして入社した、
あのハインリヒ=明=相原に別れを告げたのは。

2年前…

「ハジメマシテ。あいはらデス」
入社式に出席しようと、会議室に行くと、
そこには自分と同じくらいの背の、金髪の青年がいた。
(確か…新入社員は二人だけって聞いてたけど…まさかこの外人が?)
「ど、どうも…はじめまして、成沢です」
少しとまどい気味に挨拶をすると、彼はにっこりと微笑み、
「ワタシ、まだニホン語デキナイノ…ドウモヨロシク」
確かに、本当に片言の日本語である。
(日本語が話せないのにどうやって仕事するのよ…大丈夫なのかしら
まあ、悪い人ではなさそうだし、仲良くなれそうね)

しばらくして、会社の幹部たちが会議室へと入って来た。

「あ~あ、もう退屈だったわ…
どうしてああいったオジサン達ってお話が長いのかしら」

幹部の演説ばかりで長かった入社式を終え、眞妃はうんと背伸びをする。
今日は、入社式だけで後は用はない。
買い物でもして帰ろうかな…と足を踏み出すと、
「ア…アノ…えと…ナニサワサン」
(はぁ?)
振り向くと、先ほどの金髪の青年、相原がいた。
覚えたての日本語をしぼりだして、何とか会話にしようとしている。
「ナニサワサン…エー…アノデスね、」
さすがに、なんだか可哀想になってきた。
無理もない。日本に来てまだ2ヶ月なのだから。
確か、入社式の時に人事係の人がそう言っていた。
(しょうがないわね……)
『……日本語って難しいですよね。徐々に覚えていけば大丈夫ですよ』

眞妃は、言葉が出なくて焦っている彼を見かねて、英語で語りかける。
眞妃は英語が話せるのである。
「!!??」
日本人である眞妃が突然英語で話し始めたので、
相原は驚き、そして喜んだ。
『……え、君、英語話せるの!?よかった!!心強いなぁ~!』
緊張していたのが一気に緩んだのか、相原は眞妃の手を握り、大笑いする。
眞妃は、久しぶりに母国語を聞いてはしゃいでいる彼が、
なんだか可愛く思えてきた。
『…ふふ、じゃ、改めてはじめまして。私は成沢眞妃。20歳。住まいはこの近所よ』
改めて自己紹介する。『ナニサワさん』のまま覚えられてはたまったものではない。
彼は、眞妃の名前を聞くと、満面の笑みを浮かべて自らも自己紹介する。手は握ったまま。
『マキ…マキさん。いい名前だね!
はじめまして!僕、ハインリヒ=明=相原っていいます。
略してハリーって呼ばれてるけど。年は21歳。
名前を聞けばわかると思うけど、一応日本人の血引いてるんだ!
おばあちゃんが日本人でね…』

これをきっかけに話が盛り上がり、とうとう日が暮れるまで
会社の近所の喫茶店で語りまくった。

『ゴメンね、成沢さん。長いことつき合わせちゃって。
久しぶりに英語を聞いたらなんだか浮かれちゃって』

『ううん、すごく楽しかったわ。よかったらまた誘ってよ』
『…ホントっ!?よかったあ!
今日はずいぶん遅くなっちゃったね。送ってくよ』

『大丈夫よ、すぐ近所だし。また明日会社で会いましょ』
眞妃は、今までの会話の中で、彼の自宅の場所も聞いていた。
確か、彼の家は自分の家と逆方向なのだ。そこまで迷惑はかけたくない。
そう思い、相原の申し出を断ると、彼は少し寂しそうに笑う。
『それじゃ、また明日ね。相原さん』
そう言って、眞妃は改札口に向かおうとする。
『……ま、待って!』
『どうしたの?』
『あ、あのさ…君のこと、眞妃って呼んじゃだめかな?
君も僕のこと、名前で呼んでいいから!』

え、え?
眞妃は少し拍子抜けする。
けれども別に、名前で呼ばれるのは悪い気はしない。
『い、いいけど…えっと、じゃあ…ハリー、でいいのかしら』
眞妃がそう言うと、相原は少し考えて、
『…ううん、そうだ、「明」って呼んでよ。眞妃は、
日本でできた、最初の日本人のトモダチだもん。日本の名前で呼んで!』

『え、あ、あきら?』
なんとなく、カタカナの名前よりも、日本名で呼ぶ方が、何だか照れてしまう。
『うん、そうそう。ふふっ、なんかうれしいなあ。眞妃にそう呼ばれるの』
そう素直に喜ばれると、ますます照れてしまう。
けれども、そのくすぐったさが心地いいとも思った。
『それじゃ、気をつけて帰ってね、眞妃!』
『…う、うん、また明日ね、あ、明』
明に別れを告げ、自動改札をくぐる。
ホームへの階段を上る前に、眞妃はもう一度彼と別れた改札前へ目をやる。
まだ、彼はいる。
こちらを見ている。
どうやら、眞妃の姿が見えなくなるまで見届けているようだ。
なんとなくその場にいるのが恥ずかしくなって、眞妃は早足で歩く。
けれども…
まだ、彼は私を見ている?
そう思い、眞妃は何度も改札口の方を見る。
階段を上るまでに何度振り向いただろうか。
けれども、何度振り向いても彼は眞妃を見つめていた。
(……なんなのよ…もう……っ)
眞妃に向けられる視線が、眞妃の中に、
言葉では言い表せないような、
とりとめもない熱い感情をこみ上げさせていた。

「あ、あなたが成沢さん?はじめまして、あたし、神崎芹子。
今のところ一人でこの課を任されてるの。よろしくね」

そう言って、事業企画部の芹子は研修の資料を手渡す。
今日から約3ヶ月間、新入社員の研修が始まった。
1週間ずつ各部門をまわって、全体の仕事の流れを学習しようというものだ。
最初の週は、事業企画部であった。
(へぇ…私とたいして年が変わらないのに、一人で一つの課を切り盛りするなんて…)
人事係が言うには、この会社は、年齢性別関係なく、
すべて実力評価によって役職や役割が決まっているという。
この子はきっと、相当優秀なのであろう。
(そういえば……明は、一緒じゃないのかしら…)
辺りを見渡しても、明の姿はない。
気になった眞妃は、芹子に問いただす。
「あの、もう一人の新入社員さんは…」
「ああ、相原くんのこと?相原くんはあなたとは別々に研修を
受けることになってるみたい。確か今日はシステム設計部にいたかしら」

(なんだ…一緒じゃないのね)
眞妃は、少しがっかりする。
そして、即座にがっかりした自分に気づき、
(や、やだ私ったら…別にどうってことないじゃないの…)
自分の感情をうち消すかのように、無造作に資料を開いて読み始めた。

昼休み。
『眞妃、おはよ!昨日はどうも。どうだった?研修は』
午前の研修を終え、昼食を食べようと食堂へ来てみると、そこには明がいた。
『おはよ。…うーん、まあまあかしら。そっちは?』
…よく見ると、明の前の席にカバンが置いてある。
明のカバンだ。どうやら、席をとってあるらしい。
…まさか…
『ん?どうしたの?座りなよ。席とっておいたんだよ。
なんとなく、眞妃がここに来るような気がして』

まだ入社したてで、自分以外に知り合いがいないのだから
もしかしたら当然のことなのかもしれないが、
眞妃にはそれが、なんだか嬉しく思えた。
小声で礼を言うと、明にカバンを渡し、その席に座る。
『…で、どうだった?研修。事業企画部、だっけ?先輩に聞いたんだけど』
「お!ハリーちゃん、エーゴしゃべってるぜオイ!」
明の言葉を遮り、突然二人の男が近づいてきた。
「…あ、トーヤマサン」
どうやら、明の研修先の人らしい。
「おおっ!あんたが成沢眞妃ちゃん!!ウワサ以上のイイ女じゃん!
オレ、システム設計の遠山ってんだ。24歳、彼女ナシ!!よろしく~!!」

「も~、まんちゃんってば、かわいい女の子みると見境ないんだから~」
遠山の隣にいる、大柄でのんびりしてそうな男があきれて言う。
「いーじゃねーか別に~!独り身のつらさがお前にわかるかっ!この新婚!!
…あ、いちおーーー紹介するがコイツは営業の吉村。いっとくが既婚だぞ既婚!!」

二人の勢いに圧倒されて、眞妃は苦笑いする。
(こんな人たちと一緒に仕事して、日本語の出来ない明は大丈夫なのかしら?)

それから約3ヶ月後。
眞妃と明の二人は、無事研修を終えた。

「成沢さん。研修中はご苦労様でした。
あらためて自己紹介するわね。私は瀬上奈津恵。経理部の主任です。
といっても…実は私、あと半年したら辞めちゃうのよ。
だから、成沢さんには早く仕事を覚えてもらいたいの。
悪いけど、今日からしごくわよ」

「はい、頑張ります」
瀬上奈津恵は、今年の春先に結婚したばかりで、現在妊娠中だ。
子供が出来たのを機に、退職するらしい。
彼女が辞めたら、実質、経理部は眞妃一人で切り盛りしなければならない。
(頑張らなくちゃ…)
眞妃は、改めて気合いを入れる。
(そういえば…明は営業部で上手くやってるかしら…)

「いや~まさか相原くんがうちの所属になるとはね~
ま、これからもひとつヨロシクね!」

そう言って、営業部の吉村は明の肩を叩く。
「ハイ!ヨロシクデス!!」

眞妃は経理部。
明は営業部所属となった。
二人はそれぞれの部署で、新たなスタートを切った。

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