[小説]そして二度目の梅雨が来る(2)

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次の日。

昨日とはうって変わって、いつも通り会社へやって来た、眞妃。
始業時間よりもはるかに早く会社に来るのが、本来の彼女の日常なのである。
何故か日の出と共に会社へ来る中原幹雄には劣るが…

眞妃は、昨日からハリーに言われた言葉を、頭の中で
何度も反芻しては、悲しみと、怒りをこみ上げさせていた。
(……ううん!もうあいつの事なんて考えない。
そうよ、私はあいつの恋人でも何でもない。
とっととイギリスでもどこでも行けばいいのよ!)

そう強く思いこむと、首を何度も横に振る。
怒りにまかせて、女子更衣室のドアを思い切り開ける。

「よぉ、成沢。おはようさん」

いつも女子社員の中では朝一番に出社しているはずの眞妃は、
先客がいることに驚愕する。
「お、おはよう…浪路。
いつもギリギリで会社に来るあんたが、珍しいじゃない」

「まぁな。たまにはいいだろ。こーいうのもさ」
浪路は既に制服に着替え終えている。
だがどういう訳か、更衣室から出ようとしない浪路。
まるで眞妃が着替え終わるのを待っているかのようだ。
そんな浪路を気にも留めず、着替え終えて更衣室を去ろうとする、眞妃。
更衣室のドアノブに手を掛けた瞬間。

「昨日……ハインリヒと何があった?」

浪路の一言に。
眞妃は、ドアノブを握ったまま…沈黙する。
「………何がって……何のことよ?」
浪路は何かを知っている。
そう直感した眞妃は、半ばカマ掛け気味に問う。
「…まあ、俺が頭を突っ込むべきことじゃぁねぇんだろうけどよ。
これだけは聞いておきたい。
……お前は、ハインリヒのことをどう思ってる?」

いつもの、軽口を叩く浪路の声ではない。
真剣な、そして少し重みを増した声。
浪路の威圧感に負けまいと、眞妃は振り向いて力強く言う。
「何って、平たく言えば元恋人。そして今はただの会社の同僚よ。それ以外の何でもないわ」
「異性としては?」
「好きでも何でもないわよ。当たり前じゃない」
眞妃の答えに、浪路は軽く舌打ちする。
「けっ…よく言うぜ。未練たらたらのクセに」
「はぁっ!?……何であんたにそんなこと言われなきゃいけないのよ!」
「お前が中途半端にあいつへの想いを引きずってるから…
このままじゃあいつは安心してイギリスに帰れない」

「別に引きずってなんか無いわよ!あんな浮気なオカマ男!!
それに、あんたには全然関係ないでしょ!?余計なことは言わないでちょうだい!!」

そう叫んで、眞妃は更衣室から出ようとする。
ドアノブを回そうとした腕を、浪路が掴む。
「な……離してよっ!」
「あいつが浮気男だと?」
「知ってるでしょ!?私たちが別れたのはあいつが男と浮気してたからだって!!」
「お前は…何も分かっちゃいねぇ。ハインリヒの気持ちなんて…
そんなんでよくもまあ8ヶ月も付き合ってたな!
あいつが本当に浮気するような男に見えるんなら、
お前には元々あいつの恋人を名乗る資格すらねぇよ!」

「な…何よ、私だってあいつがどんな気持ちかくらい…!!」
「何も言わなくとも聞かなくとも、彼の気持ちは分かってます、
ってか?ふざけんなよ?
誰よりもあいつの本心に触れようともしなかったのはお前自身じゃねぇか!」

「気持ちも何も、私はあいつが男と浮気してる現場だってこの目で見たのよ!?
それ以上の証拠がどこにあるってのよ!!」

激しい言い争い。
眞妃は一気に叫び終えると、浪路の腕を強引にふりほどく。
彼女の抗議を受け入れたのか。浪路は黙ったままだ。
(そうよ…私は何も悪くない…。)
「余計な詮索はしないでちょうだい。…それじゃ」

再度、更衣室を去ろうとする、眞妃。

「確かに…『百聞は一見に如かず』って言うけどな。
…その『一見』が、もし『嘘』だったら…お前はどうするんだ?」

「……え?」

「お前の目に映る全てが真実だと思うなよ」

それから数日。

ハリーは、何事もなかったかのように、誰に対しても、
…もちろん、眞妃に対しても明るく振る舞っていた。
リーザへの仕事の引き継ぎも、順調である。

眞妃は、ハリーに声を掛けられても徹底的に無視していた。
これ以上、彼のことで悩むのははっきり言ってご免だった。
浪路の言うとおり、中途半端な気持ちなら、さっさと捨てるべきなのだ。
そう必死に思いこませた。
どうせあと何日かすれば、もう会うことも無くなる。
もう彼を恨むことも憎むこともせずに済むのだ。
だが…そう思いこませようとしても、
あの日浪路が最後に言った言葉だけが、どうしても頭から離れなかった。

 ”もし『嘘』だったら…お前はどうするんだ?”

もし…浮気が何かの間違いであったとしたら。
そんなこと、考えたこともなかった。
第一、浮気の現場を目の当たりにした時点で、
それ以上の真実を探る気持ちなど起こることもなかったから。

 ”あいつが本当に浮気するような男に見えるのか?”

付き合っていた頃は…ハリーが浮気するなんて、
考えたこともなかった。
それだけ、彼からはたくさんの…真剣な愛情を注がれていた。
彼が世界で一番愛しているのは私。
そうはっきりと確信できるほどだった。
だからこそ…裏切られたときの衝撃は並の物ではなかったのだ。

 ”お前の目に映る全てが真実だと思うなよ”

浪路は何を言いたかったのか。
裏切られたと思われていたことは、全て嘘だったと思えと言うのか。
(仮に…あれが何かの間違いだったとしたら…
……私は今まで何のために明を拒んで……)

「やあご苦労~眞妃ちゃん。もう7時だよ?残業大変そうだねぇ」

いつの間にかオフィスに一人取り残され、
残業する眞妃の頭上から、なんとも脳天気な声が。
「よ…吉村さん。お疲れさまです」
営業部係長の吉村悟史である。
出張から帰ってきたばかりらしく、大荷物を持っている。
「いやぁ~京都はいいねぇ!」
「あ…京都へ出張だったんでしたっけ」
「そうそう。出張ついでにちょっと観光もしてきたよ~あははは。」
そう言って、にこにこしながらお土産の包みを開け始める悟史。
「みんなにもお土産買ってきたよ~。おっと、こっちは香澄ちゃんと子供達の分!」
『香澄ちゃん』というのは彼の最愛の妻の名である。
「香澄ちゃんねぇ~、京都のあぶらとり紙がお気に入りでね~
たーーーっくさん買ってきたのさ!あ、眞妃ちゃんにも、はい。
それでねぇ~、子供達には……」

この吉村悟史という男は、何かにつけて家族の話をするのが好きで、
放っておけば何時間でも話し続けてしまうのだ。
それだけ、家族には果てしない愛情を注いでいる。
(本当に…奥さんと、お子さんの事を愛しているんだわ…)
好きな人に好きと、自信を持って言うこと。
今の眞妃には到底出来ないことだ。
黙っている眞妃をよそに、延々と家族の話を続ける悟史。
そんな彼を見て、無意識に眞妃の口が開く。

「……どうして、そんなにご家族の…奥さんのことを信じることが出来るんですか?
そうじゃなくても、吉村さんの奥さんってすごく綺麗な方で…
誰かに取られるかもって思ったり、誰かと浮気してるかもって思ったり、
自分のこと本当に好きなのかって思ったりしないんですか?」

予想もしなかった眞妃の発言に、悟史は家族の話題をピタリと止め、ポカンとする。
(!!!…やだっ!私ったら何てこと言ってるの!?
これじゃ吉村さんにケンカでも売ってるみたいじゃないの!!)
「すっ……すいません!!今のは聞かなかったことにして下さいっっ!!!」

悟史に何か言い返される前に、あわてて頭を下げ、謝る眞妃。
そんな眞妃を見て、広げたお土産を片づけながら、語り始める。

「例えば…香澄ちゃんが俺の知らない男の人と街中を手をつないで歩いているとするよ?
それを俺が目撃したとする。…もし眞妃ちゃんが俺だったら、どう思う?」

怒られるかと思っていた眞妃は、突然の質問に拍子抜けする。
「そ…それは……浮気してるのか?って思いますよ……」
「そうかな?もしかしたら目の不自由な男の人に道案内してるだけかもしれないよ?」
「…え…でもそれは良い方向に考え過ぎじゃ…」
「でも可能性はゼロじゃないだろう?」
確かに、そういう可能性だって、無い訳じゃない。
でも、安易にそう考えるのもなかなか難しいのではないか。
「眞妃ちゃん。夫婦や恋人はね、疑うばかりじゃダメなんだよ。
疑うことも確かに必要かもしれないけど、それだけじゃダメなんだ。
親兄弟や、友達よりも…誰よりも近い『伴侶』なんだから…まず、信じてあげなくちゃ」

「……………」
「夫婦や恋人同士は、元々は他人同士だよね?
生まれたときから一緒に暮らしてきた親兄弟じゃないから、
お互い全てを知り尽くしてるわけでもない。
だから、疑うなって言うことの方が難しいかもしれないけど……
でも、だからこそ、信じることが大切なんだよ。
それができなければ、ただの他人同士と同じだよ?」

自分に足りなかった物。
それは……愛する人を信頼する心。
自分が選んだ人だから、愛する人なんだから…
何があっても信じてあげなければならなかったのだ。
いつしか、眞妃は大粒の涙をこぼしていた。

「…君とハリーちゃんの間に、何があったかなんて俺は詳しくは知らない。
……でもね、俺は君ほどハリーちゃんのこと知らないし……勝手な解釈かも知れないけど、
俺は、ハリーちゃんが浮気をするようないい加減な男には見えないんだ。
普段はああやって冗談ぽく振る舞ってるけど…
心の中では、今も変わらず君だけを好きでいると思うよ。」

「で…でも……あき………相原さんは…イギリスに帰れて嬉しい、
私に殴られずに済むから嬉しい、って…言って…」

「それは君に少しでも寂しい思いをさせたくないから、そう言ったんだよ」
そう優しく言うと、悟史は眞妃の涙をハンカチで拭ってあげる。
「実を言うとね、俺は…まあハリーちゃんの上司だから、
ハリーちゃんが辞めようとしてたことはだいぶ前から知ってたんだ。けど…
4月に退職届が出される前に……ハリーちゃんはね、
実家の紅茶農園を継いでくれる親戚縁者を一生懸命に探し回っていたんだよ。
本来は長男の自分が継がなきゃいけないのにね。
でもそれだけ日本を離れたくなかったんだろうね………」

悟史の優しい言葉に、眞妃はもう話すことすらできないほど、泣いた。
自分は…なんて心の狭い、醜い人間なんだろう。
そんな自分が悔しくて、憎らしくてたまらなくなった。

「もう遅いし、今日は帰ろうね。送っていくよ。
あ、机を片づけないといけないねぇ。手伝うよ。」

悟史は、涙の止まらない眞妃の頭を優しく撫でると、
彼女の机の上に散らばる書類をまとめ始めた。

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