[小説]そして二度目の梅雨が来る(3)

小説/本文

数日後の週末には、ハリーの送別会が盛大に行われた。
彼の人徳もあってか、社員のほとんどが出席する大送別会となった。
だが…その中に、眞妃の姿は無かった。

終業後に開催されていた送別会の最中、眞妃は、
皆の誘いをさらりとかわし、早々と帰宅していた。
(こんな気持ちでどうやってあいつの送別会に参加しろっていうのよ…)
ハリーが日本にいるのは、あとほんの数日しかない。
眞妃はハリーに伝えなければならないことがある。
確かめなければならないことがある。
理性では分かっていても、感情がついて行かない。
今まで散々避けて、嫌ってきた相手なのに…
そして、その相手に何と伝えれば良いのかすら、分からない。
眞妃は泣きそうになりながら、私服のままベッドに横になり、布団を被った。

「……き……眞妃!お友達よ!」

(…えっ!?)
耳元で母親の声。
その声に、ハッと目を覚ます眞妃。
どうやら悩んでいるうちに、うたた寝してしまったようだ。
時計を見ると、既に午後10時を回っていた。
「…な…何?」
「お友達が来てるわよ」
「誰…?」
半ば寝ぼけ眼で母親に尋ねる。
「男の人よ。…結構かっこいいじゃない。まさか彼氏?」
年頃の娘を訪ねてきた『美青年』に、母親はからかい気味に笑う。
(男の人……?…まさか………明…?)

眞妃は慌てて軽く髪を整えると、2階の自室を出て、下へと降りる。
玄関で心配げな表情をして待つその人は、
眞妃の思い描いていた客とは別人であった。

「……浪路……」
「よ、悪ぃな。こんな遅くにさ。ちょっと出れるか?」

玄関から一歩出ると、もう一人の客人が眞妃を待っていた。
「…大島さん…」
「すいません、成沢さん。こんな夜遅くに…」
橘は軽く頭を下げると、視線を浪路の方に向ける。
「…あっちの方に確か公園あったろ。じゃ、行こうか」

眞妃の自宅から数百メートルの所に公園はあった。
雨上がりで、遊具からは雨水が滴っている。
3人は居座る場所を探したが、
ベンチに腰掛けようにも、濡れてしまっている。
「橘、上着脱げ」
突然、浪路が命令する。
「え、何でですか?」
「お前の上着でベンチを拭くんだよ」
「え…ええっ!?」
「お前、この梅雨寒の真夜中に女二人立たせる気か?
そんなんじゃ一流のナンパ師にはなれねぇぞ!?いいから貸せ!!」

そう言うと、浪路は追い剥ぎさながら、橘の上着を奪い、ベンチを豪快に拭く。
「そんなことしなくても…せめてこのハンカチで拭いて下さいよ…」
びしょ濡れになった上着を手渡された橘は寂しげに呟いた。

「…とりあえず、元気そうでなにより…ってワケじゃあ全然無さそうだな」
タバコの煙が他の二人に当たらないように、浪路は後ろを向いて煙を吐く。
「………………………」
眞妃は、何も言わずに二人の言葉を待っていた。
「…悪かったよ」
「え?」
「この間は悪かったよ。お前の気持ちも考えずにさ、
ズケズケと言いたい放題言っちまって……
言った直後は『あースッキリした!』って思ったけど、
あれからお前、全然元気なかっただろ?
それで、やっぱすげー後悔してさ……本当に、悪かった。」

浪路は沈んだ表情で眞妃に頭を下げる。
いつもの眞妃ならば…『当然よ』的に黙っているのだが…。
「……ううん、謝らないで。…むしろ、あんたにはすごく感謝してる」
確かに、浪路には一方的に言いたい放題言われたが。
ハリーを『信じる気持ち』のきっかけを作ってくれたのは彼女である。
「そう…あの頃は『彼が浮気なんてするはずない』なんて心では思ってたけど…
結局は、彼のこと、全然信じることが出来なかった。
…そうよ、8ヶ月しかもたなくて当然だったのよ……」

そう、吐き出すように言うと、眞妃は、
何かこみ上げてくる物をこらえるかのように、夜空を見上げる。
雨上がりの空の、雲の合間には星が見える。
しばらく言葉のない3人の側を、少し肌寒い風が横切った。

「な……成沢さんは、もう諦めてしまうんですか?」
少し言いづらそうに、橘が沈黙を破る。
「諦めるも何も…彼は故郷のイギリスに帰るんだもの。
…お母様のことがなくたって、日本は彼にとって『余所の国』、
いずれは…帰るときが来る。それが今来ただけだもの……仕方ないじゃない……」

「余所の国なんかじゃないです!
相原さんは、確かに遠いイギリスに帰ってしまいますけど…
相原さん自身、少しは日本の血を引いていますし、それに…
今でも間違いなく好きな、成沢さんが住んでいる国なんですから!」

珍しく橘が声を大にする。
「それに、…まあいつになるかは知らねぇけど…
『またいつか日本に来る』って言ってただろ?あいつは」

浪路がタバコを踏み消しながら、にっこりと微笑む。
「その…『またいつか』が来たときに…
笑って出迎えるのと、気まずく陰で見てるのと、どっちがいいかくらい分かるだろ?
……もう、これ以上疑うのも飽き飽きだろ。
だからせめて、笑って『また会おうね』くらいは言ってもらいてーのよ。あいつに。」

「そ…そうです、だから今日はこんな夜遅くですけど、
成沢さんに、相原さんと少しでも会って欲しくて…」

「……会えるもんならとっくに…会ってるわよ……」

必死に説得する二人の言葉を遮って、眞妃の震えた声が吐き出される。
「…口ではずっと嫌いって言ってきたけど…たとえ恋人同士じゃなくても、
彼だけはずっと私の側にいてくれるって、思ってた。…傲慢よね、私…
彼のイギリス行きが決まって…初めて彼の本当の大切さを知るなんて…
本当は、イギリスにだってどこにだって、行って欲しくない。
なのに…『また会おうね』なんて、霧でも掴むような約束、出来ないわよ…」

眞妃の頬に涙が伝う。
普段は怖い『経理部の鬼の涙』に、橘は少し怯む。
反面、浪路は泣き出す眞妃を見て、不敵な笑みを浮かべる。
「な、何笑ってるんですか…浪路さん…」
泣いてる女性に対して失礼じゃないか、と言わんばかりの口調で橘が問う。
そんな橘を横目に、浪路は眞妃の額を、手の甲でコツンと叩く。
「…ぶっちゃけた話、今のお前の頭ん中はハインリヒでいっぱいだろ」
確かにその通りなのだが、そう改めて他人から言われると気恥ずかしいのか、
眞妃は泣きながら顔から耳まで真っ赤になる。
「それって、最高の恋愛してるってコトじゃねーの?」
浪路は、眞妃の額に当てていた手の甲を、今度は頭に移してくしゃくしゃと撫でる。
「そんなイイ恋愛をこんなことで止めるなよ。まだ間に合うよ。
『また会おうね』じゃ足りねーなら、
『また絶対絶対絶対絶対絶ぇーーーっ対に日本に来い!来ないからこっちから
イギリスに行ってあんたを殺してやる!』くらいは言ってやれよ。
……『霧でも掴む約束』を霧から水くらいにはしたいだろ?」

浪路の少々クサい説得に、眞妃は思わず微笑む。
「…浪路…あんた……相変わらずクサすぎよ……」
「おう、俺はこれが専売特許だからな」
「…でも、ありがとう。」
眞妃は涙を拭い、二人に満面の笑みを浮かべる。
先ほどまでの表情の陰りは、無くなっていた。
「…成沢さん…!」
橘が嬉しそうに眞妃に微笑む。

「私、彼に会う。…会って、私の思いを…全部…話すわ」

翌日は土曜日だった。
雨こそ降っていないものの、相変わらず空は灰色だった。
だが、眞妃の心の中の曇りはすっかりと晴れ上がっていた。
もう、迷いはない。
今更自分の気持ちを伝えたからといって、
何が変わるわけでもないかもしれない。
けれども、今まで彼を突き放していた分、
酷い言葉を浴びせてきた分、伝えなければならない。
そう、たとえ叶わぬ想いだとしても…

2年前までは、頻繁に訪れていた、ハリーの住む町。
数十メートル先に、彼の住むマンションが見える。
前より少し古びただろうか?そんな印象を覚える。
エレベーターに乗り、5階のボタンを押す。
ランプが一つ一つ右に移動するたびに、眞妃の胸は高まっていった。
5階までの道のりが、異様に長く感じられた―――。

ハリーの部屋は、エレベーターを降りてすぐ。
ここに立つのは…そう、丸二年ぶり。
あの日…彼と、彼の従兄弟、ジョルジュ佐藤との浮気現場を目撃して以来である。
変に間をおくと決心が鈍る。そう思い、眞妃は躊躇い無くインターホンを押した。

 ”ピンポー…ン”

返事も、物音もしなかった。
留守なのか…それとも眠っているのだろうか?

 ”ピンポー…ン”

もう一度押す。やはり返答はない。
苛立つ眞妃は、何度かキョロキョロとすると、やがて郵便受けが視界に入る。
新聞が刺さっている。
「今日の…朝刊?」
この新聞は、確かにハリーが毎日取っている新聞だ。
今は午後2時。いくら寝坊していても、朝刊くらいには手を出してもいい頃だ。
新聞を握りしめながら軽く足踏みすると、今度は表札に違和感を覚える。
「…表札……もう外したのかしら……」
以前来たときには確かに『AIHARA』と書かれた表札が取り付けてあったはず。
表札のない玄関に午後になっても読まれない朝刊。
これでは、まるで……

「あら?お姉さん、そこの人なら昨日どっか行ったみたいよ?」

突然、隣の住まいのドアが開く。
ゴミを出しに行く主婦のようだ。
「え…あ、あの…すいません。ここに、相原という男の人、住んでいますよね?」
「えーえーよーく知ってるわよ!女の子みたいに可愛い顔したガイジンさんでしょ?」
「どこかへ…出かけたんでしょうか?」
「どこかは知らないけどねぇ。まあ近々引っ越すってコトは聞いてたけど。
でも昨日うちの息子が、ここのガイジンさんが昨晩、トランクや
大きいバッグを持って、急いだ様子で出ていってた所を見たって言ってたわねぇ」

ゴミ袋を抱えた主婦に軽く挨拶をすると、
眞妃は、震えた手で表札のあった場所に触れる。
(まさか…もうイギリスに帰った、とか…?)
だが、会社は月末まで出勤することになっているはずだ。
6月はまだ、1週間残っている。
しかし、ただ出かけるのにトランクを持っていったりするだろうか?
しかも出かけたのは昨晩…送別会が終わってからだ。
とても嫌な予感がした。
そして…その嫌な予感は、見事に的中してしまうことになる。

休み明けの月曜日…眞妃は悟史から聞かされた言葉に、愕然とする。
送別会が終わった後、悟史の元にハリーから一本の電話が入った。
『残りの出勤日は、すべて有休にして欲しい。
最後まできちんと勤めることが出来なくて申し訳なかった』と…。
その直後に、彼は成田発の最終便でイギリスに向かったらしい。

初めから、何も言わずにこうするつもりだったのか。
それとも、何か緊急事態が起きてこういうことになったのか。

どちらにしろ、眞妃がハリーに『本当の思い』を伝える時と場は、失われてしまったのである。

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