2日後……会社帰り。
眞妃は再び、『主の居ないマンション』へ、足を運んでいた。
だが…来たところで、自分を出迎えてくれる主人は、もういない。
眞妃の心の内を表すかのように、今日はものすごい土砂降りであった。
(……別れた日も、確かすごい雨だったわね……)
遠い昔の、馬鹿げたお伽話を思い出すかのように、眞妃は失笑する。
浪路や橘から、イギリスの彼の実家に電話を掛けるという案も出た。
だが、ハリーは辞める間際に、
『イギリスに帰ったら田舎にある家を引き払って、
大きな病院のある街へ引っ越す』と言っており、
案の定、実家に国際電話を掛けても、誰も出なかった。
彼が行き先も何も告げずに日本を発ってしまったため、
彼自身から連絡がない限り、彼は半ば『行方不明人』扱いである。
ハリーは、会社のみんなにはもちろん、眞妃にすら
『さよなら』の言葉も無く、いなくなった。
涙や暗い話、場を嫌い、常に笑顔を絶やさなかった
彼らしい引き際だと言ってしまえばそれまでだが。
「…なんで何も言わないのよ…言わせてくれないのよ…馬鹿ぁっ!!!」
そう叫ぶと、眞妃はハリーのいた部屋のドアを拳で殴りつける。
一度だけ殴りつけると、その場に膝をつき、泣き崩れた。
この思いは誰に届ければいい?
この思いはどこに遣ればいい?
この思いはどう消したらいい?
この思いは…どうすれば忘れられる?
…様々な思いが、眞妃の脳裏を一瞬にして駆けめぐった。
「……あーあ、ドアへこんじゃった。管理人さんに怒られちゃうわよン?」
一瞬、耳を疑った。
ここにいるはずのない人間の声。
眞妃は…おそるおそる声のした方向を、見る。
「……あ……あき、ら?」
顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、生まれて初めて物を見るような目で、問いかける。
「…ハ~イ、そうよン。間違いなく僕はハインリヒ=明=相原なのねン。」
少しふざけたようにそう答えると、ハリーは一歩、また一歩と眞妃に歩み寄る。
眞妃も、泣きすぎてふらつく足を踏み出しながら、這いつくばりながら起きあがる。
お互いの、その距離がゼロになった瞬間。
二人は力強く抱きしめ合った。
「どこ…行ってたのよ…馬鹿ぁっ!!」
「ゴメンね、お母さんの具合が急に悪くなっちゃって…
今までいた病院から大きい病院に移したりしなきゃいけなくなって…
急に帰らなきゃいけなくなっちゃって。でも…やっと落ち着いて。
引っ越しの荷物もまだまとめ終わってないし、こっちに帰ってきたんだ」
「そうならそうと言いなさいよ!…気が利かないわね…っ…
わ…私……この数日間……どんな思いで……」
眞妃の言葉を聞いて、ハリーは眞妃を抱いていた腕を、ゆっくりと解き、
両手を彼女の肩に置く。
「ゴメンね、眞妃ちゃん…あの時、あんな酷いこと言って。
ボク、それをずっと謝りたくて……傷ついたよね。
…ううん、ボクは昔から眞妃ちゃんを傷つけてばっかりだよね…」
そう言って悲しい表情を見せるハリーに、
眞妃は大げさに首をぶんぶんと振る。
「……ううん……違う……明は何にも悪くない……悪いのは私なの……
ごめ……ごめんね……明………」
嬉しさと悲しさと懺悔の気持ちが同時にこみ上げ、徐々に言葉にならなくなる、眞妃。
「泣かないで…眞妃ちゃん。眞妃ちゃんは何も悪くないよ。
悪いのは…こんなに泣いてる眞妃ちゃんを置いてイギリスに帰っちゃうボクの方だよ。」
それは仕方ないこと。明は悪くない。
そう言いたいのだが、言葉に出来ず、代わりに首を何度も振る、眞妃。
「でも…日本だって、イギリスだって…どこにいたって、
ボクが好きなのは眞妃ちゃんだけ。何があっても…ね。
…そう、言ったでしょ? それは…今でも、これからも変わらないよ。」
泣きじゃくる眞妃の顎を、右手で軽く持ち上げる。
彼女と別れてから、ずっと一方的に思いを寄せ、そして告げてきた、彼の最初で最後の尋問。
君はボクのことをどう思ってる?
ハリーの瞳がそう問いかけている。
2年間、ずっと言えなかった想いが今、放たれる。
「……私も、本当はあなたのこと……ずっと、好きだった……」
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そして……数日の時が流れ……、
暦は6月から7月へと変わっていた。
「おはようございます」
オフィスの空気に緊張感を漂わせる、凛とした声。
だがその声を聞いた社員達に、どよめきが起こる。
「うわ、眞妃ちゃん?」
「何っ、眞妃!?」
「成沢さんが来たっス!!!!!」
どよめきが起こるのも無理はなかった。
今まで、無遅刻無欠勤が常だった彼女が、
数日もの間、会社を休んでいたのだから。
「すいませんでした、皆さん…急に長いお休みを取ったりして。」
経理部の社員達に頭を下げる。
主任が頭を下げるのを見た経理部社員は、逆にその行動に何故か怯えたりもした。
「…それと…」
言葉を続けようとした眞妃は、何故かそこで口を閉ざす。
「どうしたんですか?」
隣の席の呉覇玄人が、訝しげに問う。
「…いえ、何でもありません。」
「やあ~眞妃ちゃん。元気してたかい?」
挨拶を終え、仕事に取りかかろうとした眞妃の元に、
隣にある営業部の悟史が訪ねてきた。
「吉村さん…」
信じることの大切さを教えてくれた悟史。
自分を励まし、背中を押してくれた浪路や橘にはもちろん、
悟史にも、心から感謝している。
そのことに敬意を払うためにも、悟史には報告しなければならないだろう。
「吉村さん、ちょっと…いいですか?」
眞妃は、オフィスの隅にあるコピー機の前に悟史を手招く。
「俺…眞妃ちゃんはてっきりイギリスに行っちゃったのかと思ってたよ」
そう言って、悟史は周りの社員の仕事の妨げにならないよう、小声で笑う。
合わせて眞妃もくすくすと笑う。
そんな眞妃の様子に、悟史は彼女に良い異変があったことに気付く。
「その様子だと……ハリーちゃんと?」
うまくいったんだね?
そう目で問いかけると、眞妃は微笑んで頷く。
「ありがとうございました…吉村さんには、お世話になりました。
本当に、感謝しきれないです。」
幸せそうな眞妃を見て、悟史も思わず幸せそうに微笑む。
「そんな、俺は大したことしてないよ。要はお互いの気持ちだもんね。
…それはそうと、ハリーちゃんは今、イギリスにいるんだろう?」
「ええ、昨日…帰りましたけど」
眞妃がそうあっさりと言った言葉に、悟史は驚く。
「えぇっ?ハリーちゃん、日本に帰って来てたの!?
…だったら会社にも寄ってくれれば良かったのに~」
「退職はしましたけど、会社のみんなにはまた、
正式に挨拶に来るそうですよ。8月頃には来れそうだって言ってました。」
淡々と語る眞妃。
そんな彼女を見て、悟史の脳裏にふと、一つの疑問が浮かび上がる。
「…そういえば、君は休んでいる間何をしてたんだい?
まさかずっとデートしてたってワケでもないんだろう?」
悟史の問いに、眞妃は ふーっ、と息を吐くと、
小さく話していた声を、さらに小さくして呟いた。
「まあ…いろいろと手続きをしていたんで…」
「手続き?」
眞妃の小声を聞き取ろうと、悟史は背中を丸める。
「皆さんには…追々、話して行くつもりですけど、実は……」
耳元で開かされる、眞妃の長期休暇の真相。
だが…周りに内緒で耳元で囁くのも、次の瞬間、無意味になった。
「ええぇぇ―――――っっ!!??
ハリーちゃんと入籍!!??」