4日後。
終業時間もとうに過ぎた、午後7時。
N.H.Kの研究室員たちは、既に帰宅している。
ただ二人、久我恭一郎と上総を残して。
「桐島くん…最近随分と研究熱心じゃないか。何かあったのかい…?フフ…」
色とりどりの液体と、その液体から漏れる色とりどりの煙に
囲まれた上総を見て、久我はニタリと笑う。
「えっ、あ、そのですね、僕も久我博士のように
素晴らしい発明品が出来るように…いろいろと実験してみているんですよ。
もし良い作品が出来ましたら、評価をお願いいたしますね」
そう言って、上総はにっこりと笑う。
「…そうか。まあ無理をしない程度にやるのだよ…」
「そういう久我博士こそ、何か新しい発明品を作るとか。
そちらの研究は順調ですか?」
「…ああ…ほぼ完成した……今度機会が有れば
社員のみんなに披露するよ……フフフ……
それでは、今日はそろそろ失礼するよ…少し疲れたからね……
いつものように宿直室でいるから…何かあったら呼びなさい」
珍しく疲れたのか、久我はあくびをしつつ、研究室を後にした。
「…はい…お疲れさまでした」
研究室にたった一人残された上総は、
上司の姿が消えたのを確認すると、ふぅ、と溜息をつく。
久我恭一郎は、何も知らないようでいて、
全てを見透かしているようで怖い。
(この事だけは…絶対にバレる訳にはいかないんだ…)
上総は色とりどりの液体を、器用に混ぜていった。
額から、冷たい汗を流しながら――――
一方、早々に仕事を終え、いつものように
宿直室の畳の上でくつろいでいる久我。
ベッドの上には雑誌「ニュー●ン」を広げて寝ころんでいる、
久我恭一郎の娘、在素。
彼ら親子は、実を言うとあまり会話がない。
仲が悪いというわけではないが、お互いが常に読書や研究に
没頭している事が好きなため、会話を交わさなくとも
生活できる身体になってしまっているのだ。
「在素」
珍しく、久我の方から会話を切り出す。
「私は、明日から1週間、ブラジルへ研修に行くため、
会社を留守にしなければならない。……そこで、頼みがあるのだ」
父からのお願い事など、どういう風の吹き回しか。
在素は読書をやめ、久我の方に顔を向ける。
「…何をすればいいの?」
「なるべく…桐島くんから目を離さないようにしてくれないか」
次の日。
午後6時。そして今日は金曜日である。
週末ということもあって、オフィスにいる全ての社員が既に帰宅していた。
相変わらず研究に没頭している、桐島上総を残して。
黙々と実験を続ける上総に、在素がそっと声を掛ける。
「…上総さん?」
名を呼ばれ、試験管と三角フラスコを両手に持ったまま、
声のした方向へと振り向く。
「どうしたんですか?在素さん。今日はもうみんな帰ってしまいましたよ」
上総のいつもの笑顔。
在素には、いつも通りの上総にしか見えない。
「いえ…最近、上総さんすごく頑張ってるみたいだから…
何を研究しているのかと思って」
見ただけでは何の実験をしているのかなど、在素にはわからなかったが、
それでもまじまじと試験管や三角フラスコに視線を向ける。
(……紫色……?)
ふと、在素は上総の指が紫色に染まっていることに気付く。
薬液の色素が付着しているのだろうか?
…いや…それとはまた違った色のような…
(…何なのかしら…?)
「何を研究しているのかは、近いうちに分かりますよ。でも、今は内緒です。
大丈夫ですよ、在素さんや久我博士、社員の皆さんには一切、ご迷惑はお掛けしません」
「あ、あら、そう……」
「今日から久我博士もしばらく留守ですし、在素さんも
早く帰った方が良いですよ。確か…シャンゼリゼ島崎さんのお宅で
お世話になるんでしたよね?」
「あーーっ!そっ、そういえば!今日は島崎さんとお食事の約束があったんだわ!」
「おや、そうだったんですか。それならなおさらですね。送っていきましょうか?」
「大丈夫よ、走っていくから!それじゃ、無理はしないのよ?上総さん!」
午後7時30分。
「いや~はっはっは。在素さん、1時間の遅刻ですね~~
はっはっはっはっはっはっはっはっはっは」
笑いながらクリームソースのパスタにかぶりつくのは、
謎の私立探偵、シャンゼリゼ島崎。
久我恭一郎の従兄弟に当たる男だ。
当然、在素にとっても身内になるのだが、
在素はまだ、この男の性格をいまいち掴み切れていない。
「ご…ごめんなさい…島崎さん…」
「いや~構いませんよ?それより、どうです?このお店は。
別に私のお薦めというわけでは無いんですけどね~」
「え?そうなの?じゃあ誰の…」
「やっほ~い!在素ちゃん、こーんばんは!」
そんな二人の間に、聞き覚えのある女性の声が割って入る。
「あら?沙織さん!どうしてここに?」
「へっへへー、実は会社にナイショでここでバイトしてんの!
いつもは土日しかやってないんだけど、
実は久我さんにさ、今日は島崎さんと在素ちゃんがここ来るって聞いてさー、
無理矢理シフトに入れてもらったんだー!」
「はっはっはっはっは、沙織さん、エプロン姿もお似合いですよ」
「やっだなー、島崎さん!ホメたってなんも出ないよー?
あ、ケーキセットくらいならサービスしちゃう!」
「しっかり出してるじゃない…沙織さん…(笑)」
「あ、そうそう!あたし8時でバイト上がりなんだ!
そしたらデザートくらいは一緒に食おっ!」
そして、時計は午後9時を回った。
「それにしても…不思議なメンツよね。私に島崎さんに沙織さんなんて」
「まーまーひにしまいも!はもひへればひーはん!」
チョコパフェを食しながら語る沙織の言葉は理解不能だ。
「はっはっは、不思議ではあってもあながち必然なメンツではありますがね」
主食もデザートも食べ終え、最後に何故かミックスピザを3枚追加注文する島崎が言う。
「…必然?」
ちびちびとプリンアラモードを食べる在素が、スプーンを動かす手を止める。
「実は、恭一郎さんから依頼されていたことがありましてね」
「いらっしゃいませ」
鬱蒼とした南国の植物の立ちこめる店内。
喫茶店『some』。
某ライバル会社が経営する喫茶店で、全ての店員が某ライバル会社の社員である。
特に毒物や危険物を売っている訳ではなく。
普段は、確かにただの喫茶店。だが…
入店した男は、大きなトランクを引きずっていた。
天井まで蔓延る植物のにおいに少し不快感すら覚えつつ、
男はカウンターに近づく。
そこにいる店員に、そっと声を掛ける。
「桐島です」
店員は黙って上総の顔を見ている。
おそらくチェックシステムが上総本人かどうか判定しているのだろう。
「……確認しました。奥で茉莉亜様がお待ちです。お入り下さい」
「ご機嫌よう、桐島さま。お待ちいたしておりましたわ」
そう言って、金髪の麗人は長い髪を掻き上げ、極上の笑顔を見せる。
周りには、かつて久我恭一郎に徹底的に潰されたはずの、
『某ライバル会社 特殊開発室』の社員達、
そしてその中には、草薙京介の姿もあった。
「…久しぶりだな、桐島上総」
「ええ…お久しぶりです。草薙さん。昨年の夏以来でしょうか」
言葉では社交辞令を言っても、上総の目つきはやや反抗的だ。
「まあ、桐島さまったら、怖い顔ですわね。
…でもまあ、あなたはご自身の信用と大切な方を
守るために私たちのお願いを聞いてくださってるだけですもの、
そんなに目くじらたてることではございませんわよ、フフフフ…」
クスクスと笑う茉莉亜を無視し、上総は言葉を続ける。
「いいから取引を始めましょう」
「…ふん、お前は久我と違って少しは理知的な人間のようだな。
まあいい…約束の『物』は持ってきたのだろうな?」
「はい…これを」
上総は、京介に黄緑色の不気味な液体の入った試験管を手渡す。
「ほう…これが約束の『久我恭一郎の新発明』か…
素晴らしい!これでねぎ秘密結社を潰すことも可能だな!ハハハハ!」
京介は高らかに笑う。
早めの勝利に酔いしれる京介の横で、今度は茉莉亜が上総に命令する。
「もう一つ『約束の物』があったでしょう。見せていただけるかしら?」
「…はい…」
暗く、低い声で返事をすると、上総は持っていたトランクをゆっくりと、開けた。