それから二人の、同じビル内での日常が始まった。
元々小さな雑居ビルな上に、
みゆきの会社が6階、美彦の会社が5階にあるので、
顔を合わせるのはしょっちゅうだった。
ほとんど高校時代に逆戻りである。
だが…次第に。
会えば言葉を交わし、暇が合えば昼食を共にし(ただしみゆきの気が向いた時だけ)、
帰り際に顔を合わせれば一緒に歩くくらいの仲にはなっていった。
美彦の、みゆきに対する態度や言動は『好き』そのものであった。
みゆき自身はおろか、周りの人間にも分かるほどに。
だが美彦に対するみゆきの気持ちは…『友人』。
それ以上の関係は拒んでいた。
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そんな日々が何年か続き…
みゆきにとって、遂に来るべき時が来た。
長年、病に伏していた父の容態が急変し、集中治療室へと運ばれた。
残業で会社にいたみゆきは、病院から連絡を受け、すぐに病院に駆けつけたが、
その時には既に危篤状態であった。
本来なら、病気が判明した時に
『長くても3年』と医師に宣言されていた父。
それが奇跡的に数年延びていただけに、
みゆきは、いつか近いうちにこんな日が来るという予測はしていても、
心の奥では覚悟が出来ていなかった。
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「全く!!! いきなり病院に運ばれたというから何があったのかと思ったぞ!!!」
病院内に響き渡る怒号。
「悪ーりぃ、悪かったよ柏葉。
なんか病院の看護婦さんが慌てて電話したから勘違いしても無理ねーよな」
その頃、美彦の仕事仲間が、
外回り中に歩道橋の階段で転び、怪我をして病院に運ばれていた。
仕事の都合で会社で彼を待っていた美彦の元に、
病院から連絡が入ったのだが、看護婦が慌てた口調で電話をしたらしく
誤解をした美彦は猛ダッシュで病院に駆けつけていた。
しかし来てみれば、ただの打撲と捻挫だけ。
様子見に今夜一晩泊まるだけで、後は何の問題もないらしい。
「一応お前が待ってた仕事の書類はそこに置いてあるからさ、そう怒るなって」
「フン!仕事はちゃんとこなしていた事だけは褒めてやろう!!
じゃあ俺様は帰るぞ!!!」
「ハイハイ」
ただの同僚である美彦に、そんな偉そうな口調を叩かれても
彼は美彦のそんな性格を既に認識しているらしく、特に怒りもせずにヒラヒラと手を振った。
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「全く!しょうがない奴だな!!」
ブツブツと文句を言いながら、病院内を歩く美彦。
この病院は割と広い。
そのためか、通路を間違えたらしい彼はどこか別の病棟へとたどり着いてしまった。
「むむむっ!!! ここはどこだ!?」
夕方という事もあって、薄暗い廊下は物々しい雰囲気を醸し出している。
「まずいぞ………このままではこの要塞から脱出できん!!!」
ふと前方の廊下に、項垂れながら座っている一人の女性を発見した。
あの人に道を訊いてみよう!
そう思った美彦は、ダッシュでその女性に近づいた。
そのけたたましい足音を耳にした女性は、ゆっくりと頭を上げた。
「…柴田ちゃん!?」
「……柏葉……」
またしても、偶然思いがけない場所で顔を合わせた二人。
だが、みゆきは……
美彦が今までに見たこともない表情で、彼を見つめていた。
「ど、どうしたの…?柴田ちゃん」
みゆきの、ただならぬ雰囲気を読み取った美彦は、
彼女の座っている長椅子の隣に腰を下ろしながら、恐る恐る問い掛ける。
「お前こそ何でここにいる」
「え、俺は…会社の知り合いがケガして入院したってんで、見舞いに…」
「…………………」
みゆきはそれ以上、言葉を続けはしなかった。
見た目は、普段のみゆきと変わらないようにも見える。
しかし、何かきっかけがあれば大爆発をしそうな…そんな感じだ。
こんなみゆきは初めて見る。
美彦もそれ以上は言葉を続けられなかった。
これは…そっとして置いた方がいい。
そう判断した美彦は、腰を上げて
長椅子から一歩踏み出そうとした。
だが。 上着の背中を何かに引っ張られ、その場に留まった。
「……柏葉……
悪い……暫く、ここに居てくれないか」
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みゆきの願いどおり、その場に留まる美彦。
彼女の方から願いを乞われたのは初めてであった。
美彦はどう接して良いのか分からず、みゆきが口を開くまで待つ。
「………父が死んだ」
「…えっ?」
「安らかな最期だった。眠るようだった」
「……そ、そっか……」
みゆきは、今にも込み上げてきそうな『何か』をせき止めるためかのように、
普段からは想像もつかない位、次々と言葉を続けた。
「私の母は私を産んだために死んだ。
それから父は、一人で私を育てるために、毎日死に物狂いで働いた。
家に居る事なんて殆ど無かった。だから……幼い頃は言葉を交わした記憶が殆ど無い。
まともに話すようになったのは……病で仕事を辞めてからだった」
「柴田ちゃん…」
「なあ、柏葉…
私が父の娘で……父は幸せだったのだろうか?
母の命を奪った娘を育てて……
都立入試に落ちて、金のかかる私立高校に行った私の学費を払うために、
働いて…働き過ぎて身体を壊し、遂には……」
「柴田ちゃん!!」
自らを罵倒し続けるみゆきを見ていられなかった美彦は、
力強く彼女を抱きしめた。
「か……っ」
「……ごめん……でも……
柴田ちゃん、すごく辛そうだから…泣きそうだから…」
「そ…んな事…」
「柴田ちゃんは悪くない。
親父さんは絶対に幸せだったと思う!
だから………だから、泣いていいよ。思う存分。
……こうしてれば、泣き顔は見えないから……」
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最初は抵抗したものの。
次第に…抑えの効かなくなったみゆきは、
美彦の背中を握り締め、声を殺しながら涙を流し始めた。