「うっ……ううっ……うっうっ……」
午後7時。
会社の食堂にて、女の子が一人、泣いている。
みはるである。
彼女も、終業時間と同時に帰ったはずなのだが、
会社に人が残っていないかと、再度会社を訪れたのである。
だが…カギは開いていたものの、人の気配がない。
いつもはそこそこ頼りにしている彼氏の橘も、
今日、明日と出張で、会社にも家にも戻らないため、連絡が付かない。
「……みはる?何してんだ、んなとこで」
屋上でタバコを吸っていた満が、食堂へとやって来た。
残業しているのは自分一人のはずなのに、
オフィスから見て食堂の方面の明かりが付いていたのを不審に思ったのだ。
「……あ……!! まんちゃぁん!!」
みはるは、泣きじゃくりながら思わず満に抱きつく。
「な…何泣いてんだよ、お前!」
「だって…だって!ビビアンが……!!」
みはるは、震える手で食堂のテーブルの一つを指さす。
そこには、無惨にも植木鉢が割れ、非情にも踏まれて
へろへろになったチューリップ………ビビアンがあった。
「な…なんだこれ!!どうしたんだ!?どこにあったんだよこれ!!」
さすがの満も驚く。幹雄がいつも大事に持っているビビアンが、
どうしてこんなにも凄惨な状態になったのか。
「あっ、あのね、一人で歩いてたら、…えっ…駅の裏通りにぃ…落ちてたの…」
涙声で、必死に答えるみはる。
「…にしても…仕事で両手を使う以外はめったに手放さねぇビビアンを
落としていくなんて…これは…何かあったに違いねぇ!!
みはる、社員名簿よこせ!社員を呼び出して、手分けして幹雄を捜そうぜ!!」
そして…幹雄がさらわれて、数時間経った深夜。
とある屋敷の一室に、幹雄は気を失ったまま、横たわっていた。
ご丁寧にも、布団に寝かせられている。
「………ん………」
次第に、だるそうに目を覚ます、幹雄。
しばらくぼんやりとした後、目を数回パチパチさせると、
ゆっくりと起きあがる。
「……っ! 痛たた…」
さらわれた時に殴られた腹に痛みを覚える。
だが、動けないこともない。
「ここは……?」
自分のいる室内を見回す。
足下には、畳の感触。どうやら和室のようだ。
照明はなく、真っ暗である。
ふと、自分の衣服が、さらわれた時に着ていたものでは 無いことに気付く。
「…浴衣…」
気を失っている間に着替えさせられたのだろう。
どういう趣向なのかは、全くわからないが。
「ビビアン……」
いつもは、ずっと側にいるはずのビビアンが、いない。
幹雄は、さらわれた時に、ビビアンを地面に落としたことを覚えていた。
植木鉢の割れる音が聞こえたような気がする。
「ごめん、君を守れなくて…」
不甲斐ない自分に、幹雄は泣きそうになる。
だが、泣いているヒマはない。
ビビアンの安否が気にかかる。
妻のビビアンも。夫が帰らず心配しているだろう。
もしかしたら、妻のビビアンからなんらかの連絡を受け、
社員達も心配しているかもしれない。
「気が付いたかね」
幹雄のいた部屋に、明かりが灯される。
部屋の入り口に、重く、威厳のある雰囲気を持った男が、
配下の者を二人連れ、立っていた。
年齢は50代…もしくは60代くらいであろうか。
「な…なんで僕を…こっ、こんなところに連れて来たんですか」
早くも男の威厳に負け、震えた声で問う、幹雄。
「…君をここに連れてきた理由は、今話す必要はない。
今夜はここでゆっくり休むといい」
重みのある声でそう答えると、男は部屋を去る。
「なっ、なんでですか!?ちょっ…待って下さい!!」
幹雄の必死の声もむなしく、部屋には再度、施錠された。
「今頃…ビビアンはどうしてるんだろう…」
力無い声で、そっと呟いてみる。
ここに来る前に、地面に落としてしまったチューリップのビビアン。
今頃、どんな酷い目に遭っているだろうか。
4年前に出会ってからずっと想い続け、人生を共にしようと誓い合った妻のビビアン。
きっと今でも、眠らずに幹雄の帰りを待っているだろう。
「僕はいつになったら…ここから出れるのかな…
どうすれば…帰れるのかな……」
ふと、部屋の奥にある、鉄格子付きの窓に目をやる。
幹雄のいる屋敷は、都会から遠く離れた郊外にあるらしく、
月明かりで、遠くには山が見える。
窓のすぐ外には、小さな日本庭園があり、
丁寧に手入れされた植木が立ち並んでいる。
「…そうだ…」
何かを思いついた幹雄は、窓に飛びつく。
そして、庭にある松の木を相手に、そっと語り始めた。
一方、会社では。
深夜にも関わらず、社員ほぼ全員呼び出され、
幹雄の捜索に当たっていた。
「一体…どこに行っちゃったのぉっ!中原さん…」
愛子が泣きそうになりながら言う。
「目撃者の話によると、八王子ナンバーの車でさらわれたらしいわねン!中原さん」
いつになくハリーも必死だ。
「もしかして…某ライバル会社が…?」
深刻そうに頭を抱える眞妃。
「でもなんで、中原さんをさらったんだろうね?」
すっかり泣きやみ、心配ながらもあっけらかんと言う、みはる。
「奥サマのビビアンサンにはレンラクしたデスか?」
「ああ、連絡したよ。でも、何かあった時のために自宅で待機してるって…
心配そうだったけど、気丈だねぇ、あの子は。16歳には思えないよ」
英司が感心して言う。
「…それにしても…こんなに手がかりが無ぇんじゃ…」
やり場のないイライラと怒りに、満が壁に拳をぶつけていると…
”トゥルルルルルル…”
突然、電話が鳴り出す。
外で探し回っている悟史と次郎、継人と上総からか?
「…もしもしっ!?」
眞妃がワンコールで受話器を取る。
『モシモシ…ネギヒミツケシャサンデスか?』
「…その声は…ビビアンさん?」
『ハイ。』
「何か連絡があったの!?」
『ハイ、たったイマレンラクもらいマシタ。
幹雄はヤマナシ県コーフ市のケンセツガイシャにイマス』