それから数日後。
時計は5時。終業を知らせるチャイムが鳴り響く。
それと同時に、関口結佳は席を立った。
「すいません…それじゃ、お先に失礼致します。」
素早く机上を片付けると、結佳はそそくさとその場を去った。
「関口さん、ここのところ毎日定時で帰るね。」
「まあ仕事が無いんなら別に残業しなくてもいいんじゃないか?」
庶務課の高橋和尋と榎島歩は口々に言う。
結佳は仕事熱心で、いつもなら毎日必ずといって良いほど残業をしていた。
高橋の言う通り、残業をするほど仕事がないのなら帰っても文句は無い。
だが結佳の机には、処理し切れていない書類が日に日に増えていた。
「きっと関口さんのことだから、5時からは
『正義の味方、結佳仮面!』とかいって悪者を退治してるのかも!」
みはるが冗談交じりに言う。
「…案外、あり得るかも…
何かコスチュームとか作って着たりしてて。」
「関口サン、美人ダカラ『美少女仮面ユカリン』とかってのもイイかもしれマセンね♪」
総務部の面々が結佳をネタに会話を繰り広げていると、
「おい、君達。もう終業時間は過ぎたんだから、仕事が無いのなら帰り、
残業するなら残業届を出して、仕事をするように!」
総務部長代理・奥田早瀬の厳しい言葉が飛ぶ。
『は、はぁ~い…』
早瀬の言葉にビクつき、恐る恐る返事をする総務部一同。
その時。
ピ~ピロリ~ピロピ~ピロリ~♪
どこからか携帯の着信音。
「あ、俺か…」
音の発信源は早瀬の携帯電話。
どうやら電話ではなくメールの着信音だったらしい。
メールを一目見て、早瀬は少し苦笑いする。
「奥田部長~、もしかして彼女からッスか?」
高橋の発言に、みはるが目を丸くして驚く。
「えぇぇぇえっ!!!??奥田さんて彼女いるのぉっ!?」
「そ、アッシ知ってますよ。前に聞いたから。確か名前は…」
「高橋っ!!」
名を口にされる前に、早瀬が止めに入る。
「……菊地八重子さん……」
「そうそう、八重子さん……って、あれ!?」
早瀬が高橋に気を取られているうちに、
人とも思えぬ素早さで、みはるが早瀬の携帯を奪い、着信履歴をチェックした。
「え~~ん、かっこいい奥田さんに彼女がいたなんてぇ~~…」
「っていうか人の携帯の着信履歴を勝手に見るんじゃない!!!(汗)」
慌ててみはるから携帯を奪い返す、早瀬。
「部長も今日は定時で帰らないといけないッスね~」
「いいなぁ~八重子さん…こーんなステキな人が彼氏なんて!あーあ、悲しいよぉ~」
「い、いいからお前達も早く帰れっ!!!」
「みはる…ホンキで悲しんでマスね。コレじゃ大島サンも浮かばれないデス。」
「クリスさん、『浮かばれない』って言葉は死んだ人に対して使うんだよ。」
てんやわんやする早瀬たちを暖かく(?)見守るクリスと歩であった。
午後9時。
人気のない路上の、ある電柱の影に一人の女性の姿。
結佳である。
「あ、雨…」
夕方は晴れていたものの、徐々に雲行きが怪しくなり、
雨がポツポツと降り始めていた。
「傘…持ってないし…どうしよう…
………ううん、このくらいじゃめげませんわ!!」
結佳は、手には木製バットを構え、ポケットには催涙スプレー、
カバンの中にはロープやらガムテープやら、
物騒なものがたくさん詰まっていた。
結佳は、時々人が通るたびに、目を凝らしては、その人を観察する。
どうやら誰かを待っているようなのだが…
結佳の目当ての人物は、一向に通る様子は無いらしい。
「…5月とはいえ…夜になると冷えますわね…」
バットを地面に置き、両手に息を吐きかけ暖める。
雨は徐々に強くなってきた。
「雨が……やっぱり帰らないとまずいかしら…… でも……負けないんだから……
この間は隣町で遭ったんだから…次はきっとこの辺りで…」
誰に言うわけでもない、自分に言い聞かせるように、
結佳はその場を離れようとしない。
しかしその瞬間、結佳の目の前は
一瞬にして真っ暗になった。
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「全く……八重子の奴……」
午後11時。
大雨の降る中、早瀬は細い路地に車を走らせていた。
終業直後、携帯メールにて、
恋人・菊地八重子に呼び出された早瀬は、
あの後すぐに会社を出て、指定された場所へと車を走らせた。
すると彼女の呼びつけた理由とは、単に
『買い物しすぎて荷物が持ちきれないから迎えに来て』
ただそれだけだったのだ。
しかも行ってみれば、いたのは彼女一人ではなく、
彼女の友人数人がおり、その友人達を全て自宅まで送り届ける
云わば紛れも無い『アッシー君』とされてしまったのである。
恋人・菊地八重子と付き合い始めてから、もうすぐ一年になる。
八重子は大学時代からの友人で、
恋人同士になったきっかけは、一年前に以前勤めていた会社が倒産し、
職を失い途方に暮れていた早瀬を八重子が慰めたことから。
それから数ヵ月後にN.H.Kに再就職してからも、ずっと交際を続けている。
しかし、八重子はかなり我がままで自分勝手な性格で、
早瀬のことはハッキリ言って『ベンリ君』扱いである。
(……俺は何をやってるんだろうな……)
早瀬は、八重子との関係に、このところ少々疑問を抱き始めていた。
細い路地の十字路を、一時停止して慎重に通り過ぎる。
雨が酷く、視界が悪いので気をつけて運転しないと
歩行者等がいた場合、事故になりかねない。
再度、アクセルを踏もうとしたその時、
前方にある街灯の下に、何かがうずくまっているのが見えた。
「あれは………人、だよな……?」
早瀬はその付近で車を止め、その人のところに歩み寄る。
近くまで寄って、早瀬はその人が自分の見慣れた顔であることに驚愕した。
「……おい!しっかりしろ!!!」
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「……ん……?」
どのくらいの時が経ったのだろうか。
結佳は重たい瞼をゆっくりと開いた。
その瞬間、結佳の頭に激痛が走る。
「……っ!!」
痛みと共に、息苦しさも同時に感じられた。
(な……何……何が起こったの……!?)
頭の痛みをこらえながら、結佳は周りの状況を確認する。
結佳の体を包むのは、柔らく暖かい毛布。
震える手を目の前にかざすと、見覚えの無いセーターを纏っているの分かった。
視線を遠くに移すと、自分が横たわるのは見覚えの無い一室。
(わたし……確か、あの路地でずっと見張りをやっていて…
それから、雨が降って…目の前が真っ暗になって…それから…)
「…ああ、目が覚めたのか。」
突然、結佳の耳に飛び込んできた、聞き覚えのある声。
声を出しただけで痛みが響く頭を手で押さえながら、
震える声を搾り出す。
「……え……?おく…だ、さん…?」
「全く、あんな大雨の中…俺が見つけなかったらどうなってたと思うんだ…
……まあ、今は小言は無しだな。気にしないでゆっくり休むといい。」
ここはどこなのか。
この頭の痛みは何なのか。
どうしてここに自分の上司、奥田早瀬がいるのか。
知りたいことは山ほどあったが、絶え間ない頭痛と気だるさで、
結佳の意識は再度、遠のいていった。