――――― 送、信。
緊急かつ大量の在宅の仕事をようやく終えた。
気が付けば……丸三日ほど、ほぼ不眠不休でパソコンに向かっていたらしい。
途中途中、気を失うのと同義のような仮眠はとっていたようだが…
仕事は無事納品したものの、『彼』の精神と体力は限界に達しようとしていた。
(まずい……没頭しすぎて食事も摂ってなかったから……
早く、早く……摂らないと。)
いつから食事をしていなかっただろう?
その時間を計算し、現実を確認した途端。
瞬く間に、理性が飛んでいく。
時間は、午前二時を回っていた。
男は立ち上がると、食料を求めて勢いよく家を飛び出した。
――― 3階のベランダから。
彼は、人間技とは思えない跳躍力で、難なく地面に着地する。
いちいち玄関を通って、階段を降りる手間が煩わしいと思うほど、
彼の意識は飢餓感に支配されていた。
(うぅう……欲しい……あぁ……欲しい……っ……)
時間が時間なせいか、人とは全くすれ違わない。
徘徊する中、途中で24時間営業のコンビニや弁当屋の前を通り過ぎたが、
彼の目的はそんなものではなかった。
彼の空腹を満たすものは…………
(明るいところじゃ、駄目だ……暗い、人の、いない、ところ……)
わずかに残る理性で、適した『場所』を探す。
静かな住宅街の、路地裏。
立ち並ぶ住宅の照明も大方消えていて、人の気配もほぼない。
少し離れた大通りに、まばらに歩く人の影が見える。
影を作るのは、道路を照らす街灯と……雲一つない、満月。
この満月が、彼の『本性』を焚きつける。
彼の内に眠る魔物が膨れだし、今にも発狂しそうになる。
もう、なりふり構う余裕はなくなっていた。
コツ………コツ………
この人気のない路地裏に、足音が向かってくる。
かなり背が高く、やや細身の……中年の男性か。
否、もう相手が何者だろうと、構わない。
足音と、わずかに聞こえる呼吸が耳に入るのと同時に。
完全にタガが外れた彼は、足音の主に飛び掛かった。
「……………!?」
男性は驚くが、声を出される前に彼は男性の口を手で塞ぎ、
無我夢中で背後にしがみつく。そして―――――
鋭い2本の牙で、男性の右首筋に思いきり噛みつき、勢いよく血を飲み始めた。
「うぐぅっ……ぐっ………んぐっ………」
絶食の後に、最高級の肉を与えられた猛獣のように、貪りつく。
何故か、男性は全くの無抵抗だ。
男相手だと、抵抗されると少し面倒なのだが……これは幸運なのか?
ほんの少しの疑問が脳裏をよぎるが、
3日ぶりの『食事』の前に、些細なことは見ないふりをした。
「………やれやれ。いい加減、気付いてくれないかな」
小さくため息をつくと、無防備に襲われていた男性は、
彼の首根っこを荒々しく掴み、自分から引きはがし、地面に叩きつけた。
『獲物』を取り上げられた彼は、本能的に再び男性に襲い掛かろうとする。
その時だった。
「……~~~~~~~!!???……っ!!!!………~~~!!!!!」
彼は、声を出さずにその場で頭を抱え、もがき苦しみ始めた。
頭が割れて爆発するのかと思うほどの激痛。
しかし、泣き叫びたいほど痛いのに、声が出せない。
―――― 殺される。
無意識にそう覚悟すると、彼の意識は真っ白になった。
「目が覚めたかな」
気が付くと、先ほどの男性が、噛まれた首筋を抑えながらこちらを見下ろしている。
やや不機嫌かつ、呆れ気味な表情で。
ようやく、唯一空腹を満たせる『血』を飲みこんだのに、空腹感はまったく解消されていないことに気がついた。
そして何故か、意識は正常を取り戻していることにも。
「人間と同族の区別もつかなくなるほど、腹を空かせた間抜けな吸血鬼に、こんな近くで出会えるなんてね」
「ど……同族……!?」
「あれだけガバガバ飲んでおいて、気付かなかったのかい。
吸血鬼が同じ吸血鬼の血を飲んだって、なんの味もしないし栄養にもならないって」
「あ………あ、あなたは………?」
「君と同族。……まあ、俺は真祖だけど」
――――― そう。『彼』が襲ってしまった相手は。
よりにもよって同族……しかも、世界でも数えるほどしかいない最高位の『吸血鬼の真祖』。
白鳥夜半、その人であった。
「し……真祖って………ええ……?」
ただの同族ではない。自分よりも格上の存在に初めて出会った彼は、
まだ、自分の置かれた状況を理解できずにいた。
間違えて襲ってしまった。まずそのことを謝るべきなのだろうが、
謎の頭痛によって正気に戻され、しかも空腹も満たされない状況により、彼の理解力は地に落ちていた。
「……説明してあげようか。
俺さぁ、こうやって自分の血を、こうして………」
夜半の首筋から流れ出る血が、重力に逆らって浮かび始める。
ふわふわ、くるくる……
形を持たない液体が、あっという間に小型のナイフへと変化した。
「……こういうことが、できるんだけど。
で、いま君の身体の中には、栄養にもならない俺の血がたーっぷり入ってるんだけど。
それがどういうことか、わかる?」
自分には真似のできない、高等吸血鬼たる所以の高等技術。
それを見せつけられ、率直にすごいとは思うが……。
そのナイフで、自分を刺し殺そうというのだろうか。
「わからない?…じゃあ、君の腹の中にある俺の血を、今すぐ鋭利な刃に変えて内側から引き裂いてあげようか?」
「………!!??」
「さっき叩きつけた時もね、正気じゃなかったようだったから、
君の中にある俺の血を利用して、直接脳に衝撃を与えて、正気を叩き起こしてあげたんだよ。
もちろん、こんな夜中だしね。声は魔導で抜かせてもらったけど」
「あ…………あの………ぼ、僕………」
とんでもない相手を襲ってしまった。
自分はもう、これから脳をかち割られ、腹を引き裂かれて殺される。
長年、無難で平凡な吸血鬼として生きてきたつもりだが、それも今日で終わるのか………。
みるみる脳が冴えてくるのと同時に、永く生きてきた人生の走馬灯が、彼の脳裏に急速に浮かび流れ始める。
思い残すことは多々あったが、それでも、何よりも代えがたい唯一の気がかりは―――――
「………つたちゃん………」
飛び出したアパートに一人残してきた、妻の名を呟くと。
彼はぽろぽろと涙をこぼした。
「……ごめんなさい、ごめんなさい!!こっ……殺さないで!!
ぼ、僕には、まだ、ま、守らなきゃいけない……置いて行けない人が……っ!!」
腰を抜かしつつも、必死に命乞いをする彼を見て、夜半は深いため息をついた。
「……こういうことになるかもしれないから、気をつけろって言いたいんだよ。
俺は君を殺したりはしないけどね」
夜半は、恐怖で泣きじゃくる彼の胸ぐらを掴み、やや荒げた声で説教する。
「血をもらう時は相手をよく見る。間違っても同族の血は飲まない。
正気を保てなくなるほど空腹状態にならないよう適度に食事は摂る。わかった?」
震えあがり立ち上がることもままならない彼は、涙目で首を何度も縦に振る。
「わかったらちょっとついてきて」
「……ふぁっ!?」
彼の胸ぐらから手を離した夜半が手を引くわけでもなく。
彼の足は勝手に動き出し、夜半の歩く後を強制的に付いていきだした。
どうやら体内にある夜半の血で、操られているようだ。
(と……とんでもないことになっちゃった……僕、これからどうされるの……!?)
・
・
・
・
歩いてほんの数十メートル。
連れてこられた先は……夜半の家、社員寮であった。
夜半には、社員たちから定期的に献血をしてもらい、特製の保存庫に血液のストックがある。
彼は、その中から血を分けてもらい、ようやく空腹を満たすことができた。
その後、身体の中にある夜半の血を吐き出させてもらい、ようやく恐怖からも解放された。
生命維持に必要な栄養素をたっぷり補給し、すっかり正気に戻った彼は、
普通の人間と全く変わらない様子で、淹れてもらった甘味強めのココアをすすった。
「本当に………ありがとうございました。迂闊でした。仕事でカンヅメになって、
吸血を疎かにしてしまったせいで……あんなことを。首のほうは、大丈夫ですか」
「まぁ、あの程度の噛み傷、すぐ治ったよ。
……それより、この辺りに住んでいるの?君は」
「ええと……ここから歩いて15分ほどの場所に、2年前に越してきました。
けど……この辺りには近づかないようにはしてたんです。
今回は正気を失ってしまって、つい足を踏み入れてしまいましたが……」
そう、元々この地域は彼にとっては【危険区域】であった。
何故なら……
「妻の勤務先がこのあたりにあるので……妻の同僚などに見つかったらまずいかと」
「………その勤務先って、まさか。
ちなみに君、名前は?」
「室井と申します。室井 渉。普段は在宅でWebクリエイターをしています」
(続く)