仕事もようやく慣れ始めた、10月。
「成沢さんが来てくれて、ホントに助かったわ。
経理の仕事って、はっきりいってそう簡単なものじゃないのに、
あなたってば、一度言っただけですぐ覚えてしまうんですもの」
「そんな…瀬上主任の教え方が上手いからですよ」
「ふふっ、まあいいわ。私も安心して辞められるし。
でも、時々子供を連れて遊びに来るからね」
「ええ、ぜひ」
仕事に厳しいことで社内では結構有名だった奈津恵が、
眞妃を気に入っている、と、社内ではもっぱらのウワサだった。
あの奈津恵が認めるとは、相当凄腕な新人なのだろう、と…
おかげで眞妃は、整った顔立ちも手伝って、社内では
”有能美女社員 ”として、有名になってしまった。
「…そういえば、相原くんとは、最近どうなの?」
「え!?どうって…」
「最近、あんまり喋ってないみたいだけど。ケンカでもしたの?」
「ケンカって…別に私たちそんなに仲がいい訳じゃ…」
「え、そうなの?だって、あなた達よくお昼休みは一緒にご飯食べてるし、
帰りだってよく一緒に帰ってるでしょ?社内では
あなた達がつき合ってるってウワサが飛び交ってるわよ」
「え…!?そ、そんな!相原さんと私はそんなんじゃないですよ!」
けれども…確かに、今までは当たり前のように明とはお昼を一緒に食べたり、
どちらかの帰りの時間が遅すぎない限り、一緒に帰っていた。
だが最近、明は眞妃を意図的に避けている。
眞妃にもそれは分かっていた。
だが眞妃は
(別につき合ってるとか、そういうんじゃないもの…今までが変だったのよ)
と、無理矢理、気にしないフリをしていた。
が…
(ああっ!!もうっ!!!なんでこんなに気になるのよ!?)
明と話さない日が続き、時が経つごとに眞妃は苛つく。
とうとう、仕事も手に着かなくなってきていた。
(せっかく瀬上主任も認めてくれているのに…こんなことじゃダメよ!!)
しかし、焦れば焦るほど、仕事にミスが目立つ。
「…成沢さん、あなたらしくもない…大丈夫?少し休んだ方がいいんじゃないの?」
さすがに奈津恵も、眞妃の異変に気づいたらしく、心配する。
”キ~ン コ~ン カ~ン コ~ン… ”
気が付けば、終業時間である。
仕事は一行に進んでいなかった。
「…何か、心配事があるのなら、それを解決なさい。
悩んでばかりいると、仕事ばかりか、あなたまで体を壊すわよ?
残った仕事は私が片づけておくから、今日は帰りなさい」
「…すいません…主任……」
眞妃は、自分が歯がゆく思えてきて、泣きそうになりながら深々と頭を下げる。
「ううん、いいのよ。私も結婚前はそうやってよく悩んだものだわ…フフッ」
もう、黙っていられない。
明に直接聞いてみよう。
すべてが明のせいだとは言わないけれど、
結果的に奈津恵にまで迷惑をかけてしまった。
ちょうど、明も駅に向かう途中だったらしく、一人歩く明の後ろ姿を見つけた。
『明!!!』
突然、背後から大声で呼ばれて振り向く明。
『……眞妃……』
明は、一瞬眞妃を見つめるが、その直後に、走って逃げ出した。
『待ちなさいよ、明!!!』
明は必死で逃げようとするが、運悪く踏切にさしかかってしまい、
そこで眞妃に捕まってしまった。
眞妃は、無理矢理明の手を引いて、
駅の近くの公園へとやって来た。
明をベンチに座らせると、自らは明の目の前に立つ。
『…どうして、私のこと避けてるの?』
いきなり本題に入られた明は、ばつが悪そうに顔をしかめる。
『…べ、別に避けてなんか…』
『避けてなんかないっての!?じゃあなんで逃げたのよ!!』
痛いところをつかれ、明は黙り込む。
二人の間に、沈黙が続く。
……何十分、いや、何時間経っただろうか。
実際には、ほんの数分のはずだが、二人にはその数分がそのくらいに感じられた。
『……日本語が……』
やっと、明の方が口を開く。
『…え?日本語がどうしたっていうのよ?』
『…日本語が、話せないんだ…』
『?』
『日本語が出来ないせいで、営業部ではダントツで、僕の成績が一番悪い』
『…そんなこと…しょうがないじゃない!!まだ新人なんだし…』
『…眞妃にはわからないよ!!僕と同じ新人なのに、日本語はもちろん、
仕事もできて、会社内で”有能美女社員 ”とか呼ばれて、ちやほやされて!!』
明の瞳から、一粒、また一粒と涙がこぼれ落ちる。
『……あ……明……』
『2、3日前…僕のいないところで営業部長が言ってたんだ…
「国際性を重視して、ガイジンの僕を採用したけど、やっぱり無理がありすぎたかな、
しばらく様子を見て、ダメなようならイギリスの営業所に行ってもらおうかな」って!!』
つられて、眞妃も泣きそうになる。
『…だから…私を避けてたの…?』
『眞妃はすごくしっかりしてるし、もう、会社にとって無くてはならない存在。
僕と同じスタートラインに立っていたはずなのに、もう僕よりもずっと先を走ってる。
眞妃が、なんだかすごく遠くに行っちゃった感じがして…
イギリスに返されるかも、って知ったときも。
眞妃は強いから僕がいなくたって何とも思わないだろうって…そう思ったら』
その時、明の言葉を遮って、彼の頬に眞妃のパンチが炸裂する。
平手ではなく、拳だ。
『……じょ…冗談じゃないわよ!!!私が強いですって!?』
いきなり殴られた明は、赤くなった頬に触れながら、きょとんとする。
『誰のせいで、仕事に手がつかないと思ってんのよ!!!
おかげで今日は上司にまで迷惑かけちゃたのよ!?』
明は、黙ったまま眞妃の言葉を聞く。
『あんたが私を避けるようになってから、私、あんたのことが気になって気になって…
私、何か悪いことしたのかしら、それとも、明に嫌われちゃったのか…って…』
『…ま…………ま…き…?』
『周りに騒がれてる私が嫌い!?仕事が出来る私が嫌い!?
…だったら会社なんて辞めてやるわよ!!!!』
いつしか、眞妃の顔も涙でボロボロになっていた。
『あんたもあんたよ!!多少日本語が出来ないからって、
そう簡単に諦めないでちょうだい!!
まだ半年じゃない!!営業部長だって、まだ決定って言ったわけじゃない!!!
今からだって、見返してやれるわよ!!!私も手伝うから!!!だから、だからっ……!!!』
言いたいことを言い終えると、眞妃は、その場に泣き崩れた。
『………眞妃………』
そうして、またしばらく沈黙が続いた。
『…イギリスに返されるかもって知ったとき…真っ先に思い浮かんだのは、
眞妃、君のことだったよ。もう会えないんだ…って思った』
『…………』
『本当は、何ヶ月も前から、日本にいるのはつらかったんだ』
日本は、自分と同じ人種以外はなかなか認めない、排他的な国だ。
明は、髪の色が違う、肌の色が違う。それだけで好奇の目で見られ、
辛い思いもしたという。
『…でも…日本には…眞妃がいたから。
眞妃がいたから、ここまでこれたんだと思う………
……………ごめん…八つ当たりして……………』
眞妃は、明の素直な言葉に、一瞬、顔を赤らめるが、
黙って首を振り、微笑む。
『……ううん……いいわよもう……
……でも……「ここまで」なんて言わないでよ…
…それじゃこれでサヨナラするみたいじゃない』
『…眞妃?』
そう言って眞妃は、ベンチに腰掛けている明を、自分の胸に抱き寄せる。
『…イギリスには行かないで。…ううん、行かせない。私のために日本に残ってもらうから』