そんな桜の季節から、数週間が過ぎ…。
6月に入ったばかりの、雨の日の朝。
社内では、ハリーが会社を辞める、という噂が少なからず飛び交っていた。
だがハリーは否定も肯定もせず、いつものように明るく振る舞う。
そんなハリーを見るたびに、唯一事情を知っている橘は心を痛めていた。
(相原さん……)
「…橘くん、最近、ハリーちゃんのことばっかり見てるね」
ボーッとハリーの方ばかりを見ている橘に、
みはるが不審そうに言う。
「え、ええっ?そんなことないよ!」
図星を指され、橘は慌てる。
変に勘ぐられて、ハリーの退職を知られたらまずい。
だがみはるの目は疑いの心でいっぱいである。
ずいずいと橘ににじり寄る、みはる。
しまいにはネクタイを掴んで引っ張り、睨む。
「……橘くん……もしかして……」
(みはるちゃん…変に勘のいいところもあるから…も、もしかして…!?)
「……ハリーちゃんのこと好きなの?」
ガクッ。
見当違いな答えに、橘はよろける。
「な…なんだ…」
知られてなかった。橘はホッと胸をなで下ろす。
「…もうっ、橘くんのばかっっ!知らないっっ!!」
みはるは怒って自分のオフィスに戻っていった。
「! ちょ、ちょっと待ってよみはるちゃん!違うんだってば!!」
みはるを怒らせるとアフターケアがややこしい。
ハリーの件はバレていないが、これはこれで問題である。
だが……橘の口止めも、この直後に無意味となった。
「初めまして。みなさん桃缶の干物です。」
”はぁっっ!?”
目を点にする社員一同の前で、
美しい金髪と青い瞳を持つ青年は、淡々と意味不明な日本語を話し始めた。
「ぼくはフレスリーザの新宿歌舞伎町です。
趣味はプール開きと生ゴミは月曜と水曜。
日本に来てからドラム缶1グロスでカーテンのモモヒキを…」
「……クリスさん、レオンハルトさんに、
いいから自己紹介は英語で話しなさい、って言ってくれない?
そしてそれをあなたが訳してくれないかしら」
そう言って、人事課長の瀬上奈津恵は頭を抱える。
「……なあナッちゃん、なんなんだコイツは?新人?」
金髪の青年の不可解な日本語に苦笑しつつ、
遠山 満が不思議そうに尋ねた。
満の問いに社長秘書・クリスが答える。
「エエト……彼のコトバを訳しマス!
『初めまして。僕はフレスリーザ・レオンハルトと申しマス。
趣味は日本語の勉強をすることデス。日本に来てからまだ間もないデスが、
ぼくを救って下さった社長の期待に応えるタメにも、一生懸命ガンバリマス』
……だ、ソーデスよ!」
「レオンハルトさんには、これから営業部でお仕事していただくことになります」
営業部?
社員達が目を丸くする。
こんな中途半端な時期に、しかも特に人手が足りてないとも
聞かない営業部に新人とは。
社員一同に、ふと最近まで飛び交っていた、
例の噂が脳裏をよぎる。
ざわつきが起こりはじめる。
”もしかして……”
「相原君」
奈津恵がハリーに前に来るよう、手招きする。
ハリーは皆の前に立つと、軽く会釈する。
「…実はねン、ボク6月いっぱいで辞めることになったのン。
理由は…まア家庭の事情ってやつなのねン。
……結構ウワサは出てたみたいだけどねン~?(笑)
混乱させちゃ悪いと思って、黙ってたのねン。
リーザくんには、ボクのお仕事引き継いで貰うのン」
そう言うと、ハリーは力無く微笑む。
瞳には悲しみが宿っている。
「…なんだよ~、ハリーちゃん。水くせーなぁ。
なんで黙ってたんだよ。早く言ってくれりゃ~飲み会バンバン開いたのに」
「相原さん、ホントのホントに辞めちゃうんですかっ?寂しいですよぉ!」
「そんな…突然すぎます……ほら、ビビアン(花)も悲しがってるじゃないですか」
次々と、社員達がハリーに詰め寄る。
そんな光景を見た橘は、
ハリーは普段クネクネしてるだけの男ではなく、
周りに人を集める人柄の良さと人徳を持つ人間だということを、改めて実感した。
その隣で、みはるがポツリと呟く。
「……そういえば、眞妃ちゃんは?」
!!
みはるの言葉で、ハッと我に返る、橘。
そういえば、眞妃の姿がない。
(成沢さん……そういえば、朝から姿を見かけなかった……
こんな時に、お休みなんだろうか?だとしたら、何とも間の悪い…)
「全く……やぁねえ、雨って」
そう言って、赤い無地の傘を差した美人は溜息をつく。
眞妃は、歩いて自宅から最寄りの駅へと向かっていた。
今まで無遅刻無欠勤が自慢だったはずの彼女は、
いつもよりもかなり遅めに自宅を出ていた。
遅れた理由とは、単に弟が風邪をこじらせ、寝込んでしまったため、
介抱したり医者を呼んだりしていたためである。
(まあいいわ…無遅刻無欠勤が続いたって…
特に何かいいことがあるわけでもないし…)
そんなことを考えながら、腕時計に目をやる。
時計は午後12時を回っていた。
(これじゃ今から行ってもどうせ一日有休になっちゃわね…
いっそのことゆっくり買い物でもして、
夕方だけでもちょっと顔出ししてみようかしら…ね)
こうして眞妃は、初めての「重役出勤」を、
「何とも間の悪い」日にすることになってしまったのであった…。
午後3時。
「今日は眞妃ちゃん来なかったですねぇ~。
もしかして休むの初めてなんじゃないかな?」
特に仕事もなく、いらないコピー紙を切って
メモ帳を作っているみはるがのんきに言った。
「そうね…遅れてくるという連絡は貰っていたけれど…」
今朝、眞妃自身から遅刻の電話を受けていた奈津恵も不思議そうに言う。
(朝の電話では…特にレオンハルトさんの件は言わなかったけど…
確か彼女は相原君が辞めることは知らないはず……よね…?)
「すいません、遅れました」
そんな二人の背後から、噂の彼女の声が。
「あ、眞妃ちゃん!どーしたのぉ!?こんな時間に!」
眞妃は二人に遅れた理由を説明する。
「あらそう…弟さんが」
遅刻の理由に納得した奈津恵。
「えっ?眞妃ちゃんの弟?ねえねえ、かっこいい?かっこいい?」
理由などそっちのけで、新鮮ないい男(?)情報をゲットしたみはるが浮き足立たせる。
「あ!かっこいい男の子といえばねぇ~今日リーザ様が」
「リーザ様?」
聞き慣れない名に、眞妃が首を傾げる。
「ほらほら、あそこにいるでしょ。長い金髪のキレーな男の子!
あれがリーザ様。今日から入ったんだよ♪」
そう言って、オフィスの隅で他の社員と話しているリーザを指差す。
「どうでもいいけど何で様付けで呼んでるのよ」
「だあってえ♪リーザ様って王子様みたいなんだもん♪かあっこいいよねぇ♪」
「でも…なんでこんな時期に新人さん取ってるんですか?」
浮かれるみはるをよそに、眞妃は奈津恵に尋ねる。
「それは………………朝、みんなには言ったけれども…」
奈津恵は何となく言いにくそうだ。
眞妃は不思議に思った。
「…6月いっぱいで退職することが決まった、
…相原君の後任として、採用したのよ」
「えっ?」
一瞬、奈津恵の言ったことが理解できずに、ポカンとする、眞妃。
何て言ったの?今。
そういった表情で奈津恵をじっと見つめる。
「イギリスにいるお母様の具合が良くないらしくてね。帰ることになったんですって。
4月から退職願は出されてたんだけど…ちょっと保留状態になってたのよ。
でも…今月正式に決まってね」
眞妃は、ハリーが辞めるという噂が出ていたにもかかわらず、
彼の退職についてはこれが正真正銘の初耳であった。
『眞妃の前でハリーの話題は厳禁』と思っていた社員達が、
眞妃の周りでこの噂の話題をしないようにしていたためだろう。
ハリーがこの会社からいなくなる。
日本からもいなくなる。
そして……自分の前からも、いなくなる。
唐突にそんなことを言われても、眞妃にはすぐ理解できなかった。
午後6時。
多少の残業の後、リーザへの仕事の引き継ぎの初日を終えたハリーは、
着替えてオフィスを後にした。
外は相変わらずの雨である。
ハリーは、ふと視線を前に向けると、
ビルの玄関の前に、赤い傘を差した美人が立っているのに気付いた。
「あれ?眞妃ちゃん。どしたのン?」
ハリーはいつもの笑顔で眞妃に駆け寄る。
眞妃に言葉はない。
「あ~?もしかして、ボクのこと待っててくれたのン?やっだな~、フフフ♪
一緒に帰りたいんなら言ってくれればボク、眞妃ちゃんのためなら残業しなかったのにン♪」
冗談を交えてニコニコ話すハリー。
そんなハリーが、今の眞妃には無性に腹立たしく思えた。
「聞いたわよ。会社辞めるんですってね」
「あ!そういえば朝、眞妃ちゃんいなかったよねン?もう聞いたんだ~
うん、そうよン。辞めてイギリス帰るのン」
特に悲しそうな様子も見せずに、さらりと言う。
「…なんで…何も言わなかったのよ」
眞妃の声が徐々に低く、重くなる。
「なんでって…今日が初めてよン?みんなに『辞める』って言ったの。
それがたまたま眞妃ちゃん、朝いなかっただけだしン」
「でも…瀬上さんが言うには4月にはもう退職届は出されてたって」
「あははっ!ホラ、ボクって優秀だからン♪すぐには辞めさせて
もらえなかったって言うか~ン?」
あくまでもヘラヘラとするハリーに、眞妃はついにキレる。
「……何なのよっ!会社辞めるってのにそんなに嬉しそうにヘラヘラと!!」
怒る眞妃を。ハリーは黙ってじっと見つめている。
ハリーには、眞妃の言いたいことは、分かっていた。
つまりは、辞めることが決まった時点で、
何故自分に教えてくれなかったのか。
他のみんなと一緒にされたことが気に入らないのだ。
普段はハリーのことをどんなにはね除けていても…
心のどこかでは、ハリーを引きずっている証拠である。
「…な、何よ…人の顔じろじろ見て!」
痛すぎる視線に、さすがの眞妃も戸惑い始めた。
ハリーは常に笑顔を絶やさない。
その笑顔から…眞妃には想像も付かなかった言葉が語られ始める。
「だって、嬉しいに決まってるじゃないのン。自分のふるさとに
帰れるのよン?それに、病気のお母さんともずっと暮らしていけるし。
確かに日本は好きだし、仕事もやりがいあったけど、やっぱり家族が一番大切だもン」
「あ………相原さん…」
「それにサ、さっき『どうして何も言ってくれなかった』って言ったよねン?
眞妃ちゃんに言ったからって、ボクの退社は変わらないでしょン?
…それに、眞妃ちゃんはいつだってボクのこと嫌ってたじゃないン。
眞妃ちゃんだって、イヤなヤツがいなくなるからいいんじゃないのン?
どうして…普段ボクのコト、キライって言ってるのに、こーいう時だけ彼女ヅラするの?
確かにボクは眞妃ちゃんのこと好きだけど、そーいうのは困っちゃうな」
次から次へと降る、口調は軽いけど冷たい言葉。
「あははン♪それともいっそのこと眞妃ちゃんも辞めてイギリス来るン?」
バシイッ!!
そう笑い飛ばした瞬間、ハリーの頬に平手打ちが炸裂する。
「………そうよ!!せいせいするわよあんたがいなくなれば!!
毎日その気味悪いオカマ言葉聞かなくて済むかと思うと、嬉しくて涙が出るわ!!」
怒りにふるふると震える眞妃を見て、ハリーは
叩かれた左頬をさすりながらにっこりと笑う。
「……そうよねン♪ボクも自慢のキレーなカオ、眞妃ちゃんにボコボコにされずに済むもんねン♪
それじゃあ、眞妃ちゃん。また明日ねン♪あんまり雨の中立ってると風邪ひくわよン?」
そう言い残すと、ハリーは足早に眞妃の前から去っていった。
「何よ……何よぉっ!アイツ……!!」
ハリーに言いたい放題、そして痛いところを突かれに突かれた眞妃は、
その場で拳を震わせ、呆然と立ちつくすだけだった。
「ったく……こんな大雨の日に置き傘盗まれるなんてよー…
ぜっっっってぇに満のヤツだな……俺の置き傘の場所はヤツしか知らないハズ…」
いつも折り畳み傘を自分の机の引き出しに入れている浪路は、
どうやら傘を満に持って行かれてしまったらしく、無惨にも濡れて帰るハメになった。
満は『浪路なら女子社員の傘にでも入れてもらって帰るだろう』と勝手に推測したのだろう。
その推測通り、浪路は女子社員の傘に入れてもらおうと思っていたのだが、
今日は運悪く女子社員は全員定時で帰ってしまっていた。
今は6時半である。
仕事疲れで走るのも面倒だった浪路は、
濡れたまま駅へと向かっていた。
「まぁ……水も滴るいい女……とも言うしな……
………!?」
突然、自分の脇を、勢い良くダッシュで駆け抜けた一人の青年がいた。
「あれは……ハインリヒ?」
ピンクの花柄の傘を片手に、走って駅に向かうあれは、
間違いなくハリーだろう。
「何急いでんだ…?まあいい、入れてもらうか。
…おーーーーい!ハインリヒ!!傘入れてってくれよ!!!」
浪路は大声でハリーを呼んだ。
ハリーの足がその場で止まる。
「おーおーナイスタイミング!満に傘持ってかれちまってよー」
ハンカチで髪を豪快に拭きつつ、ハリーの持つ傘の中に無理矢理入る、浪路。
「あ、カサ俺持つよ。俺のが背高ぇしな……
……は、ハインリヒ?」
ハリーから傘を奪い取ろうとして、初めて彼の顔を見た浪路は驚いた。
彼の瞳からは、止めどなく涙が流れていたからである。